概要
あねたい。九戸氏の一族、姉帯氏の居城。
馬淵川に面する断崖絶壁上の丘に築かれた、二つの郭が連なる形の平山城。「九戸政実の乱」においては九戸勢の最前線となり、豊臣政権の東北再仕置軍先鋒、蒲生氏郷率いる大軍に攻撃される。姉帯大学率いる約250名が抗戦するもほぼ討死し、落城した。
西郭が農村公園として整備され、解説なども掲示されている。
(登城日:2017/10/9 それ以降に状況は変わっている可能性があります。)
Ⅰ 所在地等
岩手県二戸郡一戸町姉帯字川久保・舘
(一戸町指定文化財)
Ⅱ 種別
平山城、居城として利用
Ⅲ 築城時期
戦国時代後期(日本城郭大系(参考※1)によれば天正年間)
Ⅳ 築城者
姉帯兼実
Ⅴ 主要な事象
天正19年(1591)、豊臣政権の奥州再仕置軍に攻撃され落城
Ⅵ 遺構
郭、堀、土塁
Ⅶ 公共交通機関アクセス
岩手銀河鉄道(IGR)小鳥谷駅から2kmほど。
1 来歴
姉帯氏は九戸連康の子、兼実(九戸政実の叔祖父)が姉帯に移住し興したといわれる。姉帯に500石、飯岡(現・盛岡市内)に1000石を領していた。その兼実が築いたのが姉帯城とされる。
姉帯氏は南部家の内部紛争でも九戸氏と行動を共にしたとみられる。
秀吉によって奥羽の諸大名が整理された「奥州仕置」において、南部信直の家臣とされたことに不満を持った九戸政実が蜂起した、いわゆる「九戸政実の乱」においても行動を共にする。
南部信直が単独で九戸政実に勝利することを諦め、秀吉率いる奥州再仕置軍(九戸討伐軍)が九戸領攻略を開始した際、最初に攻撃を受けたのがここ姉帯城となる。
天正19年(1591)、蒲生氏郷率いる2万を超える攻略軍の攻撃を前に、城主・姉帯大学兼興と弟の五郎兼信や大学の妻・小滝の前(長刀の使い手であった)をはじめとする約230名の兵が戦ったものの抗えるはずもなく落城した。
戦後、南部氏麾下の野田氏(一戸南部氏)が入ったものの、間もなく破却されたとみられる。
2 構造
馬淵川に臨む絶壁上の台地に築かれている。
二つの郭からなり、東西の郭の間には空堀がある他、城東端にも二重の堀があった。
平成8年に実施された発掘調査では、西堀に多くの建物跡や多数の墓跡が見つかっており、当時の生活の様子と激戦の状況が垣間見えている。
3 状況
東郭は藪のままだが、西郭が農村公園として整備され、解説板などが設置されている。東西郭の間の堀など城の遺構も残っている。
農村公園はよく整備が行き届いていており、後述の解説板の他、供養塔や休憩所(掲示物あり)などがある。
4 特徴
上記の発掘調査では、墓地から銅鏡が見つかっている。また、激戦地らしく多数の武具が発見されている他、建物跡からは生活用品に加え茶道具も発掘されており、姉帯氏は地方の小領主ながらも文化的な生活を営んでいた様子が見てとれる。
5 その他
一族郎党はほとんどが討死し没落した姉帯氏だが、城主・大学兼興の弟、兼信の子(当時二歳)は乳母に抱かれ金田一に逃れ、その後は小林氏を名乗り秋田に移住したという。その子孫が平成11年に姉帯城を訪れた、と城内の記録にある。
他にも、城内にあった「農村公園来訪者等記念簿」には、全国からこの地を訪れた多数の姉帯氏の思いが記されており、ここ姉帯にルーツを持つ人々の思いを感じることができた。
解説板
一戸町指定史跡
姉帯城跡
指定年月日 平成五年五月一日
所在地 一戸町姉帯字川久保・舘
所有者 (略)
姉帯城は中世南部氏の一族である姉帯氏の居城であったと言われています。姉帯氏は姉帯に五百石の他、飯岡に一千石(現盛岡市)の領地を持ち、九戸南部氏とのつながりが深かったため、戦国時代末期の南部家の領土をめぐる争いでは、九戸方の有力豪族として戦っています。
天正十九年(一五九一)、豊臣軍は九戸城攻略の前哨戦として姉帯城を攻撃しました。これに対し領主姉帯大学兼興・五郎兼信兄弟や大学の妻で長刀の名手小滝の前、棒術の名手である小屋野など、一族郎党が近隣の諸豪族とともに城に立てこもり応戦したものの、大半が討ち死にし落城してしまいました。
城は馬淵川北側の五〇メートル以上もの断崖の上に築られた典型的な山城で、東西二つの郭から構成されています。西の郭は東西約一三〇メートル、南北六〇メートル、東の郭は東西一二〇メートル、南北一〇〇メートルの規模で、東端には幅一〇メートルを越す堀が二重にめぐり、東の郭と西の郭の間にも幅二〇メートル以上の大きな堀があり、この堀にそって西の郭に高さ二・七メートルの土塁が残っています。
平成八年度から三年間、一戸町教育委員会で学術調査をしたところ、特に西の郭で重複した建物跡や墓跡などが多数見つかりました。墓からは人骨や副葬された銅鏡・古銭、周辺からは鎧・槍先・刀・矢じりなどの武具が大量に出土しており、合戦の生々しさを伝えています。
建物跡やその周辺からは、中国産や国産の陶磁器などの生活用品とともに、当時流行した茶の道具なども出土しており、豊かな戦国武将の生活の一端が明らかになっています。
平成十一年三月二五日
アクセス補足資料、その他の写真
小鳥谷駅から県道15号線(一戸葛巻線)を西進、侍村バス停で曲がって馬淵川を渡る。
侍村以降は曲がり角ごとに案内板が出ている。
周囲の状況
個人的回想
姉帯城で特に印象に残っているのは、「姉帯城跡農村公園来訪者感想等記録簿」。「自分のルーツを求めてここまで来ました」といった内容の全国の姉帯さんの書き込みが多数残っていて、なんとも言えない感慨を受けたのが今でも思い出されます。史跡を訪れる目的は数あれど、「自らのルーツを求めてきた」というのは素敵なこと。平凡な苗字の自分にはわからない感慨なのかもしれません。
例え二百数十名の小さな城であろうとも、一族郎党が籠って戦うというのは、こういう何かを後世に伝えていくものなのでしょう。
僕自身、日本全国数多の城をめぐっておきながら、自分の家のルーツには行っていないことに対する罪悪感もあるのかもしれません。(ルーツがどこかはわかっているんですが、到達難易度高いんです…)
参考文献
※1 「日本城郭大系2 青森・岩手・秋田」 326頁
外部リンク
「姉帯城跡/一戸町」 一戸町ホームページ
内部リンク