概要
三陸沿岸道路陸中宇部ICの近く。宇部川と支流の北ノ越川に挟まれた、比高25mほどの細長い丘に築かれた単郭の城。
一戸南部氏の一族、野田南部氏の城で、野田城(場所など詳細不明)と並ぶ野田氏の拠点だったと思われる。野田氏が盛岡城下に移った際に破却されたとみられるが、江戸時代には南部藩の代官所が麓に置かれていた。
現在は八幡神社が主郭に置かれている。堀などが残り、岩手県による発掘調査(県埋蔵文化財C)も行われている。
(登城日:2017/10/8 それ以降に状況は変わっている可能性があります。)
Ⅰ 所在地等
岩手県久慈市宇部町第3地割
Ⅱ 種別・利用法
平山城、居城
Ⅲ 築城時期
大永年間(1521~1527)以前
Ⅳ 築城者
野田(南部)義親か。(それ以前に宇部(海辺)氏が拠っていたかも)
Ⅴ 主要な事象
「九戸政実の乱」において久慈氏が九戸氏側につき、最前線となった。
Ⅵ 遺構
郭、土塁、堀
Ⅶ 公共交通機関アクセス
三陸鉄道陸中宇部駅から0.6kmほどで登城口。
1 来歴
古くは宇部(海辺氏)が居を構えていた可能性がある。
現地案内板によれば、大永年間に一戸南部氏の後裔である南部源左衛門義親が一戸の野田から宇部に入部したという。「日本城郭大系」によれば、(孫引き容赦)『野田系図』異本に野田直親(義親の三代後)が「古館毀ちて宇部館による」とある(参考※1)。
戦国末期の当主、野田政親(直親の弟)は南部本家に仕え活躍している。南部家の内乱から始まった「九戸政実の乱」では、久慈城の久慈直治は九戸方の主力となったことから、宇部は最前線となった。
九戸政実の乱の翌年の天正20年(1592)に野田城が破却されており、野田氏はこのタイミングで宇部館に移った可能性もあるが、この時は新しい野田城に移ったともされる。
細かくは諸説あるものの、基本的には野田氏の城であり、野田氏は野田城と宇部館を拠点(または支城)としていたと思われる。
乱の後、南部宗家となった三戸南部氏は盛岡城を築き、完成までの間、三戸城が南部家の本拠地となるが、この際に野田氏も三戸城下に居を移す。この時に宇部館も廃城となったか。
江戸時代には館跡の山麓に、藩の野田通代官所が置かれた。
野田氏は江戸時代を通じて南部藩(盛岡藩)の重鎮となる。幕末に新政府への恭順を唱え楢山佐渡と対立した家老、野田親孝もこの家系。
2 構造
宇部川とその支流、北の越川に挟まれた東西150mほどの細長い丘に築かれた細長い城。また、丘の基部となる西側は二重の堀で切断されている。
3 状況
郭内の西端に八幡神社が鎮座している。(八幡館)
先述の堀は、発掘調査時の写真が県埋蔵文化財センターのHPに掲載されている。
解説板
史跡 宇部館跡(うべだてあと)
【位置・構造】
宇部館は、十府ヶ浦に注ぐ宇部川とその支流の北の越川に挟まれた丘陵の先端部に築かれており、宇部の集落との比高差は約二十五メートルである。
上部には平場が作られ丘陵の西側は二重の堀で切られている。
東西に長い単郭式で、規模は、東西約百五十メートル、南北約二十~六十メートルで、面積は約四千平方メートルである。二重の堀は幅約三十~四十メートルで、内側の堀は郭から約五~六メートル、外側の堀は約十二~十五メートルの深さである。郭と堀の境には高さ一~一・五メートルの土塁が残されている。
【宇部館の由来】
久慈市山根町上戸鎖に和佐蘿比(わさらび)神社があり、天保七年(一八三六)に奉納した古文書『宇野人家録』(市指定文化財)が所蔵されており、宇部館の城主は宇部(海辺)氏であったと記されている。
その後、大永年中(一五二一~二七)に三戸南部氏の支族で一戸南部氏の後裔である南部源左衛門義親が一戸の野田から宇部に入部し、義親が新たな館主となりこの地方を知行したと考えられる。
後に野田氏を名乗り、野田村三日市場に古舘(野田城、現野田小学校)を築いて居館し、戦国期に当地方では久慈氏と並ぶ勢力を持つ豪族となった。
天正十九年(一五九一)の九戸政実の乱の際には、野田正義・政親(後に直親と改名)父子は南部信直側に味方し、九戸氏や久慈氏とは敵対関係にあった。
天正二十年(一五九二)の南部領内の『諸城破却書立』に「野田城 山城 破却一戸掃部助持分」とあるが、一戸掃部助とは野田政親のことである。
破却後に関しては、古館を破却し宇部館へ移ったとする説や、城内(現海蔵院・愛宕神社)の西側に新館(野田城)を築いたとする説などがある。
野田氏は豊臣秀吉の武士城下集住策により三戸南部氏が盛岡城を築いた後は、その城下に移っており、後に盛岡藩の重臣として活躍した。
宇部館跡の頂上には八幡宮の祠があることから、八幡館とも呼ばれている。また、館跡の南側の裾部は、後に盛岡藩野田通代官所が置かれた場所である。
久慈市教育委員会
周囲の状況
個人的回想
この時は三陸鉄道北リアス線で北上していて、「久慈駅から久慈城に行って戻る時間は多分ないが、リアス線の途中で一か所降りても大丈夫」ということに気づき、電車内で慌てて駅近くの城を探したのでした。次の電車に間に合わせるためにかなり走った記憶があります。
そのためか城内の写真はかなり少なめ、最大の見どころのはずの祠の裏の堀回りを撮ってないあたりが、当時の僕も甘いな、という思いです。
参考資料
・「日本城郭大系2 青森・岩手・秋田」199頁
外部リンク
・「宇部館跡(岩手県 埋蔵文化財センター)」―発掘調査中の写真あり。