概要
水戸藩が築いた「海防城」。外国船が常陸沖にも出没するようになった幕末の世、水戸藩主徳川斉昭が築かせた。大藩の水戸藩が築いただけあって、多くの施設を備えた大規模な城であったと思われるが、斉昭の隠居後に佐幕派が藩政を握った水戸藩において、尊王攘夷派による挙兵「天狗党の乱」に関連して焼失した。日本城砦史においても重要な存在であり、必要性に疑問符がつく藩の内乱により焼失してしまったことが悔やまれる隠れた名城である。
(登城日:2019/7/13 それ以降に状況は変わっている可能性があります。)
Ⅰ 所在地等
茨城県日立市助川町
(県指定史跡)
Ⅱ 種別・利用法
平山城、海防城
Ⅲ 築城時期
天保7年(1836)
Ⅳ 築城者
水戸藩(藩主・徳川斉昭) 海防総司・山野辺義観
戦国時代には佐竹氏の新城七郎が築いた古城、蓼沼館が存在したという。
Ⅴ 主要な事象
元治元年(1864)、幕府軍の攻撃により落城、城側残党により焼失
Ⅵ 遺構
本丸表門礎石、鳩石
Ⅶ 公共交通機関アクセス
JR常磐線 日立駅から約2.5km。
1 来歴
幕末、日本近海には欧米の捕鯨船などの外国船舶が多く訪れるようになっていた。水戸藩の治める常陸沖も例外ではなく、藩主・徳川斉昭は海防の必要性を痛感する。家老・山野辺義観を海防総司に任じ、助川城を築いた。
一国一城令により城の新造はできなかったため、戦国時代の佐竹氏の臣、新城七郎が築いた「蓼沼館」を改修するという名目で築かれたという。また、初崎海岸(合瀬漁港の北方、新城館周辺)には初崎台場が築かれた(参考※1)ほか、海岸沿いに合わせて7か所の台場、遠見番所が築かれた。
日本で唯一の海上を監視する目的で作られた「海防城」は、水戸藩の重大施策であり、古城の改修と言いつつも大規模な城構えで、兵器工場や練兵場、監視櫓などの装備を備えた一大拠点であった。しかし幕末の藩内の対立に端を発した悲しい内戦により築城後30年足らずで炎上、焼失してしまう。
炎上の経緯は長いので要約した上で畳みます。
助川海防城、藩の内乱により焼失
佐幕派諸生党(門閥派)の市川弘美らが藩政を抑える中、尊皇・改革派の藤田小四郎(東湖の子)が天狗党の乱を起こし、宍戸藩(水戸藩支藩)藩主松平頼徳が水戸藩主慶篤の代行として幕府から遣わされる。が、頼徳軍に尊王改革派の武田耕雲斎などがいたことから市川は開城を拒否。頼徳はやむなく天狗党と合流し望まぬままに諸生党と交戦。それを受けて幕府は頼徳・天狗党討伐の軍を興す。頼徳が援軍依頼を助川海防城の海防総司・山野辺義芸に送っていたため、助川海防城も攻撃を受ける。義芸もやむなく応戦するものの降伏、義芸に従わずに城に残った残党が城に火をかけ、助川海防城は焼失した。
現在の助川城址公園には、「尊王攘夷」の額を掲げる城址碑が残る。
確かに尊王派・天狗党に殉じて落城したともとれるのだが、最後の城主、山野辺義芸が尊王の大義に殉じるつもりがあったのか考えると複雑ではある。
ともかく、大藩・水戸藩が海防のために築き、多くの施設を備えていた城は消滅し、今はわずかに門の礎石と、鳩石を残すのみとなっている。
2 構造
城門付近の三の丸から本丸に向けて高くなり、本丸からは海を見通すことができた。遠見櫓や警鐘を備えていた。
また、城内には武器の製作所や馬場や教練所などを持ち、修業場の「養生館」が建つなど、普通の大名の居城をはるかに上回る装備を有する城であった。
解説板に施設の場所が記されているので、国土地理院HPを利用して、高低差と施設が分かるように示したのが下図である。範囲外の海岸沿いには砲台なども設置されていた。
3 状況
前述のとおり、水戸藩の内戦で焼失。
そのほとんどが失われており、遺構としてはわずかに本丸表門の礎石と、鳩石が残るのみである。城址碑付近に作られている石垣などは後の公園化の際に築かれたものである。
城の多くは小学校や病院、宅地などになっているが、中心部などは公園として保全されており、海を臨む雰囲気を味わえる。
4 特徴
日本で唯一「海防城」と呼ばれる城である。
この城が海岸を見張り、海岸線に点在する台場などで戦う方針だったのだと考えられる。しかしこの方法で日本の広い海岸をくまなく守るのは無理な話である。また、教育熱心な水戸藩らしく、文武教育の場としての機能も持っていた点も注目したい。
5 その他
海防総司として城主となった山野辺義観は、戦国時代山形の大名、最上義光の四男・山野辺義忠の子孫。義忠は「最上騒動」(wiki)で山形藩が改易された後、長く岡山に流刑となっていたが、後に許され水戸藩に仕え、家老となっていた。
解説板
助川海防城跡
水戸藩第九代の藩主徳川斉昭公は、天下に率先して海防の重要性を強調し、天保七年(一八三六)家老山野辺義観を海防総司という新設の重職に任命し、太平洋を一望に収めるここ助川(介川)村の高台、要害の地形に拠って城郭を築いて居住させ、異国船の無断進入に、備えさせた。これが助川海防城である。これを海防城と通称するのは、一大名の城と異なり、わが国にも当時類例のない海防を目的とする城郭だったからである。
この城は完成までに五年の歳月を要し、総面積は約六十八平方メートル(二十余万坪)で、助川小学校の校門付近にあった館入口(城の表門)から三の丸(一部は助川小学校敷地)、二の丸(一部は太陽の家)本丸と進むに従って高く、本丸には、異国船を見張る櫓もあった。海防城は、元治元年(一八六四)九月、幕末水戸藩の内乱のときに焼失し、当時の遺構としては本丸表門の礎石の一部と、二の丸にあった鳩石だけとなった。しかし茨城県史跡に指定された二の丸の一部と本丸跡等には、百余年前の城郭の面影を偲ばせるものがある。ちなみに、大佛次郎氏は、昭和四十年十二月中旬この城跡を訪れて調査をされたが、その直後執筆された氏の歴史小説「夕顔小路」に、この海防城の落城前後の模様が興味深く書かれている。
日立市教育委員会
鳩石
(鳩石解説板)
この鳩石は、水戸藩の家老であった助川海防城初代の館主、山野辺義観(一八五九年没)が、かわいがっていた鳩の死をいたんで、庭石にその鳩の姿を自分でほりきざんだものといわれています。
日立市教育委員会
本当に戦いの必要性があったのか微妙な水戸藩の内乱によって灰燼に帰した、幻の最先端の城。門の礎石と並ぶ数少ない遺構がこの「鳩石」である。謂れは解説板にあるとおり。
これで石に刻まれていたのが、海防の志や尊王攘夷の念であったりしたら重要史跡として祭り上げられていたかもしれないなぁ、とは思いますが、これはこれで味があります。江戸時代の個鳩としてここまでしっかりと来歴と姿を残している鳩は他になかなかないでしょう。
その他の写真等
大規模な城砦であったこともあり、本丸中心の公園以外にも、各所に城の痕跡が楽しめる。
個人的回想
本当に戦いの必要性があったのか、本人たちに戦う意図があったのかすら微妙な水戸藩の内乱によって灰燼に帰した、幻の最先端の城。海防城という他に例を見ない城跡としても、また当時の日本で屈指の国力を持っていた水戸藩が藩策として全力で築いた城としても、もし残されていたならば日本城郭史に大きな足跡を残す城跡になったのだろうなぁ、と惜しまれます。
ただ残されたのはその城全体の構造と、鳩石のみというのがまた儚さを感じさせる。
可愛いんですけどね、鳩石。
参考資料
(※1)「日本城郭大系4」 52-54頁
外部リンク
・「助川海防城跡|茨城県教育委員会」
・「日立市観光|助川城跡公園」