くま城戦軍研 ―熊代城砦戦国軍事研究所

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資料室

御殿場山下台場

御殿場山下台場、解説板と灯台のレプリカ。左奥に見えるのが台場小学校(2022/9/25)

概要
 ペリー来航により太平の眠りからたたき起こされた江戸幕府が築いた海防台場の一つ。江戸を守るために洋上に11個の台場を築く予定だったが予算と工期不足により果たせず、両方の節約のため、陸岸に連結して作った台場。
 目黒川河口の砂州に築かれ、人流物流の重要拠点、品川を守った。
 現在では周囲の埋め立て地と一体化しているが、その名残は見てとれる。
(登城日:2022/9/25 それ以降に状況は変わっている可能性があります。)

Ⅰ 所在地等
  東京都品川区東品川1丁目 台場小学校等
Ⅱ 種別・利用法
  海防台場
Ⅲ 築城時期
  幕末 嘉永~安政期か
Ⅳ 築城者
  江戸幕府
ⅤⅥ 主要な事象・遺構
  特になし
Ⅶ 公共交通機関アクセス
  北品川駅近く。
  現代の地形図と、台場がその形を保っていた昭和4年(1929)の地形図を比較して示す。(ともに国土地理院HPの資料を利用。この項最大の見せ場)

左・昭和4年の旧1万地形図「品川」、右・現在の国土地理院地図より。ともに「国土地理院HP」の資料を利用して作成

1 来歴
 嘉永6年(1853)、ペリーの来航により幕府の鎖国政策は大きな変換を迫られる。
 幕府は急遽、海防のために11の台場(砲台)を建造する計画を立てた。次回は江戸に来訪する、とされたペリー艦隊に対し、いざというときにはその側面や後方からも攻撃を加えるためである。しかし、そのうち完成したのは第一、第二、第三、第五、第六の5つの台場のみであった。幕府は工期と費用の圧縮のため、陸岸に連接した台場を建設する。
 目黒川砂州により陸続きという地形、海上台場との位置関係、そして陸海交通の要衝たる品川という立地条件からこの地が選ばれたのだろう。他の台場との位置関係を、国土地理院HPの掲載の明治時代の地形図を利用して示す。

 結果としてペリー艦隊と戦争になることはなく、台場はその本領を発揮することなく、その任務を終えた。昭和期になると周辺は埋め立てられ、台場は消失していく。以後の状況は「3 状況」に記す。

国土地理院HP掲載、明治42年(1909)「二万正式図・東京南部」を利用して作成。

2 構造
 目黒川河口北東側に形成されていた砂州の先端部に築かれ、海に突き出るような五角形で築かれていた。かつての目黒川は北西に現在の八ツ山通りにそって進み、現在の船溜り付近で海に注いでおり、右岸側(北東側)に砂州が形成されていた。(上記地形図参照)
 石垣により形成されていたとみられ、台場小学校校門前の記念モニュメントにその石が利用されている。
 詳細な形状や武装等は不明である。

灯台レプリカの後方から。石は台場に使われた石垣のものが利用されている(2022/9/25)

3 状況
 現在は周辺も埋め立てられている。昭和初期までは砂浜に突き出るように五角形が残っていたようだが、その後は周囲も大きく造形され住宅地となっていく。
 しかし、現在でも特徴的な道路の形から、跡が特定できる。古くは気象台の施設があり、気象台官舎なども建っていたが、昭和32年に品川区により、旧台場の半分ほどの面積を占める台場小学校が設立され、現在に至る。
 城門前に解説板と、記念モニュメントとして「品川灯台」のミニチュア(下の「解説板」において詳述)、石垣の石が展示されている。

4 特徴
 急ごしらえであったと考えられ、台場そのものについては資料が少ない。
 幸か不幸か実戦の機会もなかったものと考えられる。

解説板
灯台レプリカの下に立つ解説板。最近は小学校周辺をうろつくおっさんへの視線が痛い(涙)(2022/9/25)

 御殿山山下台場(砲台)跡
 嘉永6年(1853)、アメリカ合衆国のペリーが4隻の軍艦(黒船)を率い、日本に開国を求めるため浦賀(神奈川県)に来航しました。鎖国をしていた当時の日本は大騒動になり、徳川幕府は江戸の町を守るため、急いで品川沖から深川洲崎にかけて11の台場を造ることにしたのです。
 伊豆韮山(静岡県)の代官・江川太郎左衛門英龍がオランダの書物をもとに砲台づくりの指導にあたり、第一から第三台場と第五・第六台場は完成させましたが、残りの第四・第七は中途で工事を中止し、第八以下は着工にも至らなかったのです。その代わりとして、陸続きで五角形の砲台を造ることになりました。これが御殿山下台場(砲台)です。明治になると埋め立てられ姿を消しましたが、幸いなことに台場の輪郭は道として残り、今でもその位置と形を知ることができます。跡地に建つ台場小学校の敷地はこの台場の半分ほどの面積を占めています。
 台場跡からは石垣が発見され、小学校にはその石垣を使った記念碑が建てられました。石垣の上に立つ灯台は、明治3年(1870)、日本で3番目の洋式灯台として第二台場に造られた品川灯台を模したものです。
 品川灯台は、現在は国の重要文化財として愛知県犬山市の博物館明治村に移設されています。
 平成18年3月31日 品川区教育委員会

周囲の状況

 周辺は「品川湊」。戦国時代には既に重要港湾となっていました。
 太田道灌が江戸城に移る前の本拠地で、江戸築城後は宇田川氏が守ったといいます。

北品川の船溜り。かつては目黒川はこちらに流れていた。(2022/9/25)

 江戸時代には東海道の宿場にて江戸の町の海運の中心、人物流通の一大拠点「品川宿」として繁栄。本宿があったのは現在の「聖蹟公園」で、台場は町の北端くらいになります。
 京急北品川駅が品川駅より北にないのは不思議ですが、歴史を紐解けばむしろ京急電鉄の方が正しいのです。

台場近くの通りにたっていた「台場横丁」解説板。品川は東海道と海沿の街が並列する作りになっており、数々の有名な「横丁」がありましたが、他の横丁に比べると新参なのかもしれません。(2022/9/25)


 

個人的回想
 完全に都会の一部となっているものの、旧地形が現在からでもいい感じに推測できる城跡です。旧地形図と比べるのが楽しいです、国土地理院に感謝。
 台場跡として完全に認識できる道は少ないですが、明治・大正期の地形図や現地の状況から、前掲の五角形区画が台場跡で間違いないと思います。
 本当は小学校隣接の細い道(小学校側が高いのが一目瞭然)などが最大の見せ場なのでしょうが、人がずっといて写真撮れませんでした。最近は小学校近辺の調査はいろいろと怖いです。
 周辺の品川宿や台場(特に第四台場)を含め、引き続き調査・加筆続けます。


外部リンク
・「御殿場山下台場」(しながわ観光協会)