概要
最上川の河岸段丘を利用して築かれた城。鮎貝氏の居城であり、その後も上杉氏などに利用されている。江戸時代には米沢藩の御役屋が置かれ、本庄氏が入り地域の中心となっていた。城の一角には鮎貝八幡宮が入っており、土塁、水堀などが現在でも見てとれる。
神社境内に城の復元模型が奉納されているのが見どころ。近傍には戦国時代から存在していた桜の古木が二本存在しており、そちらも名高い。
(登城日:2017/5/27 それ以降に状況は変わっている可能性があります。)
Ⅰ 所在地等
山形県西置賜郡白鷹町鮎貝
(白鷹町指定史跡)
Ⅱ 種別・利用法
平山城、
Ⅲ 築城時期
応永3年(1396)
Ⅳ 築城者
鮎貝成宗
Ⅴ 主要な事象
天正15年(1587)、最上家についたため伊達家に攻略される。
Ⅵ 遺構
堀、土塁
Ⅶ 公共交通機関アクセス
現・鮎貝八幡宮。フラワー長井線、四季の郷駅から1km弱
1 来歴
藤原安親(wiki)(山蔭の孫、詮子の叔父)が下長井の荘官となった際、その子孫が土着し横越氏となった。応永3年(1396)、経緯は不明だが成宗は鮎貝城を築いて移り、鮎貝氏を名乗ったという。
戦国時代には伊達家に従い、伊達晴宗から所領の安堵も受けている。
その後、天正期となり宗信(忠宗?)の代に最上義光の姉を娶り最上側についたため、天正15年(1587)、伊達政宗軍の攻撃を受け落城している。(参考・※1)宗信の父・宗盛(盛次?)と弟宗定(宗益?)は伊達家に仕え、以後、伊達家臣下として存続していく。
鮎貝城はその後、上杉氏に利用される。米沢を直江兼続が領した際には中条氏が城代となった。米沢藩では御役屋が置かれ、最初は下条忠親が城主で入り、後に春日氏を経て本庄氏の世襲となる。
明治維新後の詳細は不明であるが、明治31年には鮎貝八幡宮が城跡に移転し、現在に至っている。(鮎貝駅前にある「八幡」が旧所在地と推定)
2 構造
構造をわかりやすくするため、国土地理院HPの地図を利用し、高低差を可視化したものを示す。
鮎貝八幡宮を南東とした四角い台地、また現存する土塁が良くわかる。土塁の下には水堀が現存している。
土塁、水堀に固く守られた八幡宮が本丸にも思えるが、日本城郭大系の地図を見ると、八幡宮は二ノ丸で、その北西に本丸があったようにも見える。(参考 ※1)現に、八幡宮には「二の丸址」の看板があった。台地部の中心には「御役屋跡地」があり、こちらが本丸だったのかもしれない。鮎貝城解説板(後掲)には、「本城から出てお屋敷、お役屋となった」とあり、本丸回りの防御施設は廃されたのかもしれない。
一方で、神社の解説板には「明治31年に本丸跡に移転した」とあり、やはりこちらが本丸のような書き方もされている。
正確なところはよくわからないが、この台地一帯が城跡、そして米沢藩の「お役屋跡」であり、地域の中心であったのは確かだろう。
3 状況
城があったと思われる台地部は、現在でも周囲から小高くなっている。
南東の一角には神社が入り、その周辺は保存されており、土塁や内堀が残されている。
4 特徴
神社の一角に建つ「鞘殿」(外観は頁頭に掲載)に、城の復元模型が納められている。
ガラス越しに拝観が可能。
横の解説板にも「当時の本丸や大手門の形状規模は簡素で小規模であったと思われます」と書いているが、確かに立派にすぎる気もする。
一方、「二の丸は当地に縁のある「本庄の御役屋」の建物様式を再現してあります」とあり、こちらは江戸時代の姿をよく再現していると思われる。
解説板
鮎貝城址
応永三年(一三九六年)初代鮎川成宗が築城、境内全体が本荘跡だる。土塁造り本丸、二の丸、三の丸に分かれ内堀は川を利用した自然の濠であった。
城代春日氏の後は本城から出て本庄氏の代までお屋敷、お役屋とあった。
土塁の下に水をたたえた薬研濠が今も残っている。
八幡宮の解説板は、老朽が激しく解読断念
町のHPによると、康平2年(1059年)の創建で、現在の建築は江戸時代のものとのこと。
個人的回想
地形がしっかり残り現存濠なども見どころですが、やはり一番目を引くのは、神社内鞘殿に収められている城模型でしょう。多くの城巡り人が困っているように、僕もガラスケースの中の模型はうまく撮れていないです。(撮れている写真は僕自身が映っちゃってるし)
荒砥城が取れ高全然だったので、是非再訪したい地域です。
参考文書
(※1)「日本城郭大系3」 154頁
外部リンク
・「後庵ザクラ」(山形県HP公式観光サイト)
・「子守堂のサクラ」(同上)
・「白鷹町観光協会」(鮎貝八幡宮について記載あり)