くま城戦軍研 ―熊代城砦戦国軍事研究所

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富松城

道路の反対からとった富松城の状況。まさに町中の城跡(2020/1/25)

とまつじょう
概要
 戦国時代、西摂津の交通の要衝として数多の合戦で利用された小城。歴史の中に簡単に消えていってもおかしくなかった城だが、地元の方々の熱意もあり、土塁の一部が尼崎の町中に残されている。
 城の由来や現状、保存運動などは「バーチャル博物館・富松城歴史博物館」に詳しい。そちらを是非見ていただきたく、以後の僕の解説はほぼ蛇足である。
(登城日:2020/1/25 それ以降に状況は変わっている可能性があります。)

Ⅰ 所在地等
 兵庫県尼崎市富松町2丁目(「富松城跡前」交差点)
Ⅱ 種別・利用法
 平城、居館として利用
Ⅲ 築城時期
 長享元年(1487)以前
Ⅳ 築城者
 薬師寺氏と推定
Ⅴ 主要な事象
 細川晴元と高国の戦いなど、幾度も戦場となる。
Ⅵ 遺構
 土塁と堀跡
Ⅶ 公共交通機関アクセス
 阪急電鉄武庫之荘駅から1kmほど。「富松城跡前」交差点、バス停もある。

国土地理院HPの地図を利用して作成。土塁は南西端と言われている。

1 来歴
 長享元年には「富松城」の名前が見える。築城の状況などは不明だが、富松荘を管理していた薬師寺氏によるか。
 要害の地とは程遠い平地ながら、交通の便の良さから、戦国時代を通じて幾度となく戦記にその名が見える。防御力は無いため「決死の籠城をこの城で」などということはなく、交通の利便性からか「〇〇を攻める際に本陣を置く」という使われ方が目立つ。登場する近くの城を地図に記す。(位置は正確なものではありません。イメージです)

国土地理院HPを利用して作成。尼崎城とかは場所不明なため、あくまでイメージです。

 戦いの詳細は畳みます。

両細川の乱における富松城

 細川家同士がどうして戦っているか、とかの事情は割愛。
 大まかにいうと細川高国・浦上村宗連合vs堺公方足利義維を擁する細川澄元(晴元)・三好元長連合の戦いで、赤松政祐が高国側から澄元側に寝返った。富松城主薬師寺氏(富松氏とも)は基本、高国側。
・越水城攻防戦
 永正16年(1519)、細川澄元は越水城を攻撃、高国は越水城主瓦林正頼救出のために富松城に布陣。しかし正頼が降伏し撤兵したため高国も退却、結果として富松城も澄元側となった。
 その後、高国は京都での桂川合戦で大敗し、近江に逃れる。
・富松合戦
 享禄3年(1530)、高国は再興し再び摂津を狙い、城砦化されていた神呪寺に布陣。対して晴元・三好軍は大物城に布陣、富松城には薬師寺国盛が入った。(薬師寺氏は基本的に高国側だったが、国盛は晴元側についていた)
 高国は富松城を攻め、二度目の攻撃で落城、城兵は伊丹城に退却。高国は富松城に本陣を置き、大物城を攻略、摂津統一を目指す。
・大物崩れ
 摂津統一を目指し伊丹城を攻め、敵方の本拠地、堺をも窺う高国軍だったが、援軍として神呪寺に入っていたはずの赤松政祐が晴元側に寝返り、事態は一変。高国は伝説的な大敗、世にいう「大物崩れ」を喫し、尼崎において自刃した。
 

三好家勢力下における富松城

 両細川の乱では味方だったはずの細川晴元と三好家が戦っており、畠山家を吸収して巨大化した木沢長政が近畿有数の勢力となっているのだけど、細かい事情は割愛。
・越水城攻防戦
 天文10年(1541)、木沢長政は三好長慶の本拠・越水城攻略を企図。富松城に後詰の陣を置いた。長慶は一庫城(現・川西市)を攻めていたが取って返し籠城。阿波からの援軍を得て木沢軍を敗走させ、富松城も落城させている。
 以後、三好長慶の元、越水城の支城として使われたか。
・江口の戦い
 天文18年(1549)、三好長慶と三好政長の戦いは畿内を真っ二つに割る大乱となっていた。越水から中嶋城を経て、政長方の榎並城(現・大阪市野江内代付近)を攻めていた長慶軍に対し、政長側は連携を絶つべく富松城を攻撃。「囲魏救趙」と言える策であったが攻略に失敗した。
 結果、政長軍は敗れる。政長死後も抵抗していた伊丹城を攻撃するため、長慶が富松城に本陣を置いている。
 三好氏が拠点を大坂方面に遷した後も越水城は重要拠点の一つであり、富松城もその支城として利用されたとみられる。

その後の富松城

 廃城時期は不明である。
 その後も、「富松城主富松氏」や名前を変えた「牧氏」の存在から「富松城」の存在は天正時代くらいまでは痕跡を感じられる。荒木村重の乱を経て信長が摂津を統治するようになり、小城を廃していったときに廃されたか。
 発掘調査の結果から、江戸時代には宅地・農地となっていたとみられる。むしろ、土塁の一角がのこされていることが奇跡的か。

2 構造
 その残された土塁と、昭和38年に実施された発掘調査の結果から、かつては単郭で土塁と単純な堀に囲まれた100m×80mほどのちいさな居館とみられていた。(「日本城郭大系」にもそう記されている(参考 ※1)
 しかし平成6年に再度発掘調査がより広範囲で実施され、二重の堀を持っていた可能性が出てきた。また、大きさも150m×200mほどの規模であったと考えられている。
 また、土塁の北側には櫓台跡とされる遺構が見つかっており、古墳を利用したものとも考えられている。

3 状況
 土塁の一角(南西隅とみられる)と堀跡が現存している。
 土塁の内側には石段などがあり、土塁の上も見れるときもあるようだが、僕は柵の外から写真を撮っただけです。
 この町中に遺構が残っているだけで奇跡的

柵の外から撮った土塁の状況(2020/1/25)
道路に面した側、堀跡。奥にコンビニの看板が見えます(2020/1/25)

4 その他
 戦国時代の記録では「東富松城」「西富松城」が存在していた模様であり、現存する土塁は「東富松城」のものであるとされる。
 「日本城郭大系」によると、「西富松城」は「字「宮ノ前」あたりと考えらえる」(参考 ※1)とのこと。武庫之荘駅近くの須佐男神社あたりの地名が現在は「武庫之荘東」だがかつては「西富松」だったようなので、この辺りじゃないかな、と考えてます。

5 その他
 町中にこの土塁が残っているだけで他には遺構や記念館などはない。
 が、Web上に「バーチャル博物館・富松城歴史博物館」が開設されており、関連資料が集められている。

解説板
解説板、奥に土塁。左手はバス停のベンチ。街中っぷりを見せたくて敢えてこの角度を選択(2020/1/25)

 富松城跡
 富松城は戦国時代の城館で、長享2年(1488)の史料にその名がみえます。永正4年(1507)以降、室町幕府三管領の一家に数えられ摂津など畿内周辺の数カ国の守護を占めていた有力大名細川氏の分裂抗争を発端とする戦乱が尼崎地域に及ぶと、西摂地域の重要拠点であった尼崎城・伊丹城・越水城(現西宮市)のほぼ中間地点に位置し戦略上の要地である富松城は、その戦乱の主要な舞台のひとつとなりました。
 目の前に残る小山と溝は、城の西側の守りとして築かれた土塁と堀の一部と考えられます。これまでの発掘調査では、土塁の内側(東側)に当たる場所で大規模な堀が見つかっていることから、富松城は土塁と二重の堀を備え、東西150m以上、南北200m以上の規模の城館であったと推定されます。今も残る小高い土塁は、戦国時代の争乱を今に伝える大切な歴史遺産です。
 平成21年9月 尼崎市教育委員会

その他の写真
土塁を裏から。隣のスーパーの駐車場の奥から撮ったんじゃなかったかな(2020/1/25)
城跡を残す熱意が感じられる標柱。この町中にあるのがすごい。標柱の後ろに裏側が見えているのが解説板(2020/1/25)

個人的回想
 小さい城であろうとも、地元の愛がある城は記憶に残るもの。とにもかくにも、完全な市街地の中ながらも土塁・堀跡がしっかりと残っていることに感動します。Web上に築かれたバーチャル博物館、「富松城歴史博物館」を見ても、地元の方々の熱意で残されていることがよく感じられます。
 自由に入れた時期もあったみたいですが、僕が行ったときにはしっかりと柵で囲まれていました。中には石段のようなものなども見え、是非、じっくり見てみたいなぁと思う遺構です。


参考文献
※1 「日本城郭大系 12」348-350頁

外部リンク
・「バーチャル博物館・富松城歴史博物館
・「富松城|観光スポット」(兵庫県公式観光サイト HYO GO!ナビ)