くま城戦軍研 ―熊代城砦戦国軍事研究所

受付(ホーム) ・事務室
・城郭研究室 城メモ
・戦国研究室 地域情勢 人名名鑑
 ー基礎資料 農業 料理・加工食品
資料室

西宮砲台

曲折を経て現存し綺麗に整備されているが、保護のために内部に入ることはできない。(2019/3/21)

概要
 幕末、外国船の来航を受けた幕府が大阪湾の海防のために西宮の海岸に造った円形砲台。しかし試射として内部で大砲を発射したところで塔内に硝煙が立ち込め戦うことはできず、実戦使用されることはなかった。
 維新後は香櫨浜遊園地の施設として利用された後、文化財として保護され、現在でも外壁と土台は当時のものが残されている。
(登城日:2019/3/21 それ以降に状況は変わっている可能性があります。)

Ⅰ 所在地等
 兵庫県西宮市西波止町(御前浜公園)
 (国指定重要文化財)
Ⅱ 種別・利用法
 海防砲台
Ⅲ 築城時期
 文久3年(1863)着工、慶応2年(1866)竣工
Ⅳ 築城者
 江戸幕府(指揮は軍艦奉行・勝海舟)
Ⅴ 主要な事象
 試射の際に煙が充満、使用できず
Ⅵ 遺構
 砲台本体が補修され現存
Ⅶ 公共交通機関アクセス
 阪神電鉄香櫨園駅から1.5kmほど

1 来歴
 安政元年(1854)10月、ロシア帝国の使節、プチャーチン中将が指揮するディアナ号は箱館に入港するが交渉に至らず、11月には天保山沖に入港する。
 この際、尼崎藩の大砲が出陣し、波止場の神社石垣に大砲を設置しディアナ号に備えたのが、西宮砲台の始まりと言えば始まりとなる。
 砲台の本格的な構築は文久3年(1863)に開始。軍艦奉行勝海舟の指揮下で実施されたとみられ、実際の建築は大坂町奉行所などが指揮を執った。最初は稜形砲台を築こうとしたものの、予算不足で現状になったともいう。(参考※1)
 大砲二門を装備し試射が行われたが、その際に硝煙が砲台内に充満し、実戦使用には耐えないと判断された。砲台は結果、実戦使用されずに維新を迎える。

円形砲台そのものがダメなわけでは…

 硝煙が内部に満ちたことで試射は失敗し、西宮砲台は完全に失敗作!勝海舟どうしたのこれ?みたいに避難されることが多いのだが、円形砲台そのものが全くダメというわけではない。
 世界的には、ポーツマス港スピットバンクフォートなどが有名。ちなみにこちらは完全に洋上で、今は超高級リゾートホテルになっている。
(公式はこちら。英語。「一般公開してないよ!」としつこく出るので注意)

 その後、軍の管理下にあったものの、明治政府は大阪湾の海防に関しては入口の紀伊水道の守りを固める方針を採り由良要塞を整備、西宮砲台は使用されず。
 明治17年に火災が発生、内部の木造構築が燃え外壁部のみが残った。
 明治43年には、香櫨浜遊園地を整備していた阪神電鉄に払い下げられ、海水浴客の遊興に用いられた。屋上はビアガーデンのように用いられていたとか。
 大正11年(1922)に国史跡指定。昭和9年には室戸台風によって天井が破損、昭和11年に補修された。
 その後、漆喰は剥がれ落ち外壁の石造りがむき出しの状況となっていたが、戦後に保存の気風が高まり、昭和50年には外壁が修復され、外側が塗りなおされるとともに内部には補強の鉄骨が築かれた。

2 構造
 高さ約12m、径約17mの円形、外から見ると2層に見えるが内部は3層だったとも。出入口は北側にのみ設けられていた。中央に開けられた12個の方形砲眼が特徴的。地上に出てる以上にしっかりと築かれた基礎も貴重な遺構で、それを加えると石組自体は約13.8mの高さがある。(参考※1)
 また、周辺には土塁も築かれていた。現在、砲台の周囲に残る松林はその名残とも。

西宮砲台解説板と遠景。松林は確かに小高くなっており、土塁のようにも見える。(2019/3/21)

3 状況
 現状では保全のために立入禁止となっていたが、昭和50年の補修で直された外壁が現存し、幕末の建造時と変わらないと思われる姿を現在も浜辺に残している。

北側からの写真。唯一の出入り口が一階部分に見える。(2019/3/21)

4 注意
 砲台前や公園にある解説板はすっきりとしたものだが、砲台の後方、北側の砂浜に降りる階段を上ったところに解説板、近くに史跡碑があった。海岸沿いに行くと見落としがちなので注意。

近くにある史跡碑。大正12年指定、すでにこれそのものが史跡な感じ(2019/3/21)
上の路上にあった解説板。写真には、補修時に内部に築かれた鉄骨の状況が(2019/3/21)
解説板

 国指定史跡 西宮砲台 1基 指定年月日 大正11年3月8日
 江戸時代のおわり、国防に不安を感じた江戸幕府は、京都を警護する要地にあたる大阪湾に砲台を築きました。その工事は、文久3年(1863)から慶応2年(1866)まで続き、あしかけ4年間も続きました。
 土塁でかこった中央部に、松クイを1000本以上も打ち込んで基礎とし、カコウ岩の大岩を組みあげています。本体には砲眼11個と窓1個が穿たれ、大砲で四方をねらうことができました。実際には使われることなく、明治時代をむかえました。
                        西宮市教育委員会

個人的回想
 大正11年(1922)に史跡指定。史跡指定百年となります。
 僕もかつてここの城メモを書いた時には、「失敗を残すのも大事」みたいな書き方にしてしまったのですが、いろいろ勉強した今となっては、円形砲台そのものがダメというわけではなく、大砲とかのチョイスの問題だったのではないかと考えており、少し反省しています。
 にしても、明治時代とかには海水浴客に娯楽施設として開放されていた頃の砲台が気になります。ビアガーデンとか明治からあったのですかね。


参考文献
※1 「日本城郭大系 12」356-358頁

外部リンク
文化遺産オンライン 西宮砲台」(文化庁HP)