くま城戦軍研 ―熊代城砦戦国軍事研究所

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資料室

赤見城

保育園前に建つ石碑と標柱。後ろに見えるのが土塁。石碑の裏は解説板になっている(2017/7/8)

概要
 平安時代末期に遡る歴史ある城。戦国時代においても戦略拠点としての価値を失っていなかったとみられ、佐野氏が利用している。
 本丸を囲む土塁とその外の濠がとても良好に現存しており、現在でも城らしい佇まいを残している貴重な史跡である。
 かつては内部に「赤見城保育園」が存在し、保育園を守る土塁として活躍していた時期もあったが、現在は閉園してしまっている。
(登城日:2017/7/8 それ以降に状況は変わっている可能性があります。)

Ⅰ 所在地等
  栃木県佐野市赤見町 (赤見城保育園跡)
 (文化財指定など記入)
Ⅱ 種別・利用法
  平城、居城として利用
Ⅲ 築城時期
  安元元年(1167)
Ⅳ 築城者
  足利俊綱
Ⅴ 主要な事象
  野木宮合戦で源頼朝軍の攻撃を受けた。
  戦国時代には佐野泰綱に攻撃されている。
Ⅵ 遺構
  土塁、堀
Ⅶ 公共交通機関アクセス
 両毛線富田駅から5km強。城跡から1.5kmほど東の佐野運動公園までは佐野駅からコミュニティバスが出ている。

国土地理院HPの地図を利用して作成。

 他の城メモでは「解説板」とその書き取りは下部に載せているのだが、この城の解説板はとても詳しいので先に載せます。

解説板
昭和50年建造という歴史ある解説碑。長文です。(2017/7/8)

 赤見城跡
 赤見城跡(一名町屋城)は中世城館遺構として、最も立派に原形を留める佐野氏の代表的文化遺産である。
 伝承古記録によれば、藤原秀郷の子孫足利俊綱が安元元年(一一六七)に築城し、治承二年(一一八一)に居城したと伝えられる。俊綱その子忠綱は領地のことで新田義重と争い、平重盛に頼ったので、そのあと源頼朝と対立した。そして志田義弘の乱に義弘に応じたため頼朝の軍勢に攻められ、俊綱はその家臣に殺害され、忠綱もその後飛駒で討たれ足利氏は亡びた。ところが俊綱の弟佐野成俊・有綱はそのあとを嗣いで佐野氏が興隆することになる。
 赤見城に佐野基綱を頼って落ちのびたと称する源義仲の子、岩崎義基の所領となって、その家臣戸賀崎義宗・荒川満氏・戸賀崎清氏・荒川氏重・同詮長・赤見仲村・同義重等が建仁元年(一二〇一)から約二百年間ここに居城したといわれる。その後応永十二年(一四〇五)から関東管領足利持氏の支配を受け家臣が在城した。文明三年(一四七一)足利成氏の家臣南式部大輔父子が赤見城を守っていたが、上杉家の家臣長尾景信に攻められ落城した。そのあと赤見には永正十二年(一五一五)から赤見六郎左衛門が居城し、約三十年間その力を保持した。佐野盛綱・泰綱の代になり、赤見氏は佐野氏と対立した。佐野氏は不意に赤見城を夜襲したため、赤見父子は常陸に母系を頼って逃れた。佐野昌綱の代になり和睦し、佐野武士団の有力な一員となった。この間赤見城は、唐澤山城の重要な支城として隣国足利の長尾氏との攻防の拠点となった。佐野宗綱戦死のあと、北条氏忠が佐野氏忠として尾形山に迎えられ、佐野庄は大部分北条の勢力下におかれた時、赤見氏は岩崎氏などとともに反北条氏の中心的役割を果し、天徳寺了伯と関係し秀吉と結び佐野家再興の原動力となり、赤見城がその根拠地となった。徳川政権の成立とともに慶長十八年(一六一三)佐野信吉の改易により、四百余年の興亡の歴史を伝えた赤見城も廃城となった。十六世紀末の記録(唐澤三里四方出張改め)や口伝によれば赤見城は東西約四八〇メートル、南北約三八〇メートルの規模をもち、この本丸を囲んで東に二の丸、南に三の丸、西に西の丸、東北の北の丸を配し、いづれも土塁と濠で囲まれていた。東西の方に二つの捨郭(捨曲輪)があり、西南は大湿地帯であったという。東北より出流川、西北より駒場川の水を最大限に利用したもので、その規模は現在の町屋全域に当り、その中に多くの武士屋敷や防禦陣地が構築されていたと考えらえる。
  昭和五十年四月十四日
   佐野市長 鈴木達三 建立
   佐野市文化財保護審議委員会 選
この土塁・濠は旧土地所有者青木紹実氏が保育園県sつに際し市に寄贈されたものである。
    

1 来歴
 解説碑(前述)がとても詳しく、そのダイジェストのような形になる。
 足利俊綱(藤家足利氏。藤原秀郷の後裔が下野国足利に根付いたもので、室町将軍家とは関係ない)が平安末期に築城。志田義弘に味方したために源頼朝の軍勢に攻められ落城する。その後、戸賀崎氏により復興。
 戦国時代には戸賀崎氏の後裔が赤見氏を名乗り入っていたが、戦国大名として成長していた佐野氏に目を付けられ、佐野泰綱の攻撃を受ける。赤見氏は常陸に脱出した。以後、赤見城は佐野氏の城として、対足利長尾氏との最前線となる。
 赤見氏は昌綱の代に佐野氏と和睦し赤見城に戻ったとされる。佐野家の後継が途絶え、北条家から氏忠が入り家を継いだ際には、反北条として活動したという。佐野天徳寺宝衍(了伯、房綱)と協力関係にあったか。
 その房綱は秀吉の助力を得て佐野を奪還するが、2年で養子の信種(信吉)に家督を譲り、その後は赤見城に隠棲していたとか。
 江戸時代に入り、慶長19年(1614)佐野藩主佐野信吉が改易された後は廃城となった。

2 構造
 東西約480m、南北約380mの規模があり、現存する本丸を囲んで東に二の丸、南に三の丸、西に西の丸、東北の北の丸が存在したという。関東地方によく存在する、小さな城館が時代によって防御施設を増やし、戦国城砦に成長した城ではないだろうか。
 現代の地形図と頁冒頭に掲げた地形図を比べると、北側以外は現在も地形に名残を残しており、この道路が明らかに違う区画が城跡と考えてよさそうである。

国土地理院HP地図を利用して作成

3 状況
 閉園となった旧・赤見城保育園を囲うように、本丸の土塁とその外の堀が状態良く残っている。土塁と濠は保育園創設時に地権者から寄付されたとのこと。

頁冒頭の階段を上り、土塁の上に出たところ。曲がった先には社があったはずだが、写真に残っていない(2017/7/8)
一部には濠の外側にも土塁が残されている。(2017/7/8)
その他の写真
頁冒頭、標柱から右側の土塁を見た様子。こちらも水は無いが堀跡が感じられます(2017/7/8)
僕が訪問時はまだ営業していた、赤見城保育園の園庭。休日だったのでひっそりしてました。(2017/7/8)

個人的回想
 僕が行った2017年には赤見城保育園として開園しており、遊具なども残っていたのですが、現在は閉園(正確には他園と統合)され、草ぼうぼうとなってしまっているようです。いずれ、赤見城の遺構も整備されなくなっていってしまうのかもしれません。これほどの明確な遺構は貴重ですし、市指定史跡なので今後の進展に期待したいところです。


参考文献
※1 「日本城郭大系 4」 278-279頁

外部リンク
赤見城跡」(佐野市文化財課HP)
※佐野市は城が多い市なこともあってか、公式HPの城解説も充実してます)