中世:能登国鳳至郡(ふげしぐん)
現代:石川県輪島市
1 概要
古くから海の恵みで知られ、古刹も残る「神宿る島」。一方で定住者は少なく、戦国時代においても季節居住者が存在したものと考えられる。
能登国鳳至郡に属する離島。面積0.55㎢、周囲5kmほどの島。能登半島から 無人島の七ツ島を挟んで50kmほど北方に所在。令和期の人口は漁業の最盛期に200人ほど、越冬者は数十人(多くは海士町に居宅を持つ季節移住者)
舳倉島と能登半島の間には無人島群「七ツ島」がある。
2 戦国前略史
・奈良時代
七ツ島とあわせて真珠の産地として知られていた。
延喜式内社である奥津比咩神社には銅鏡が残るなど歴史は古い。
・平安時代
海士が鮑や真珠を採っていたとみられる。「今昔物語」によると、能登国受領の藤原通宗が厳しく税を取り立てたため、海士は越後に逃散したとも。
・鎌倉時代~室町時代
統治が及んでいた資料は見つけられないが、漁場として利用されていた模様
海上交通の拠点として、また海士の収集拠点として利用されていた。
3 戦国時代
明確な統治者はいなかったものの、海上交通の拠点となり、定住者はいた可能性がある。また、輪島の住民が漁場として利用していたとみられる。
永禄12(1569)年、筑前から能登に海士集団が移住してくる。彼らは夏のみ能登に渡り海士として生活、冬には筑前に帰っていた。拠点を年々移すうちに舳倉島に到達し、漁場として利用していたとみられる。戦国期には鵜入に定住し、舳倉島での採取を主な生業として発展していった。
4 戦国後略史
海士集団はこの地で発展を遂げ、人口も増えたことから江戸時代には加賀藩から土地を与えられ輪島の地に「海士町」を築いた。
以後、舳倉島は海士町の海士の収集拠点として発展、夏季の季節移住者が多く住んだ。昭和になっても季節移住が主であったが、振興のためにインフラが整備されると定住者も徐々に増えた。
行政区分は歴史的経緯からか、現代でも本土の「海士町」の一部である。
5 産業
海流に恵まれた日本屈指の好漁場。豊富な海産物で知られる。
古くから鮑や真珠の名産で知られたほか、海女漁ではワカメ、テングサもとられる。江戸時代には海苔の採集が盛んとなる。舳倉島で採れる「島海苔」は高品質であり、加賀藩にとって特産品となり、幕府や朝廷への贈答品として用いられた。トビウオ網漁も行われていた。
現代ではカニやタラの漁獲も多い。
6 建造物
・興津比咩神社
延喜式内社。かつては現在の港付近、現・伊勢神社の地にあったが、江戸時代初期に現在の西岸に遷された。
舳倉島には当社をはじめ7つも神社がある。
7 その他
大陸と日本の間を飛ぶ渡り鳥にとっては格好の休息地であり、現代でも日本有数の野鳥の観測ポイントとして知られている。これは古来から変わらない光景と思われる。
外部リンク
・舳倉島(wikipedia)
・海士町自治会 -輪島市海士町のHP。(舳倉島も含まれる)