くま城戦軍研 ―熊代城砦戦国軍事研究所

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資料室

粟島

中世:越後国岩船郡
現代:新潟県岩船郡粟島浦村

国土地理院HPから作成

1 概要
 江戸時代には北前船の補給地、風待ちの港として重視された日本海海運の要衝たる離島。戦国時代にはまだその真価は評価されていなかったと思われるが、鎌倉武士の離した馬の末裔が残るなど、歴史を感じられる島だったろう。
 新潟県北部、村上の沖35kmほどに浮かぶ島。面積は約10㎢。令和期の人口は350人ほど。中世には現在よりも多くの人が住んでいたと思われ、大いに発展していたと考えられるが、大火の影響で古い史料が残っておらず、江戸時代以前の状況については謎が多い。

2 戦国前略史
・平安時代以前
 縄文時代の遺跡が存在する。前述のとおり歴史については不明な部分が多いが、伝承によると、大和朝廷により本土を追われた蝦夷が住んでいた。
 9世紀頃、九州の松浦党の一族が東海岸に上陸、蝦夷を島の西岸に追いやったというが、その半世紀後、越前から本保氏が上陸し松浦氏を西岸に追いやり、松浦氏は西岸に移動、蝦夷を島の北に追いやったという。蝦夷はいつしか衰亡したとされ、二氏が残り繁栄した。現在でも島には本保氏と松浦氏が多く居住している。
・鎌倉時代、室町時代
 長く色部氏の領土であり、色部氏の地頭がおかれていた。
 鎌倉時代の板碑などが残されており、繁栄していたとみられる。

3 戦国時代
 引き続き、揚北衆の色部氏の領土であった。
 個人名は残っていないものの、色部氏の代官が「内浦城」に入り統治していた。また、西岸にも「釜谷城」が築かれていた。

4 戦国後略史
 上杉家が会津に移った後は色部氏の統治から離れたとみられる。
 江戸時代には村上藩領となり、その後は天領、荘内藩領と点々とし、米沢藩預かりとなって幕末を迎えた。北前船の補給地であり、幕末には米沢藩が外国との交易に利用するなど、海上交通の要衝として重要であった。
 明治に「粟島浦村」が成立、現在に至っている。

5 産業
 漁業資源に恵まれるとともに、海上交通の要衝として栄えた。
 各戸で大豆や小豆等の自給的な農業も存在。1964年の新潟地震による地盤隆起により水源がふさがるまでは稲作も行っていた。
 竹林が多く、古くから竹を生活用品として活用するとともに製品としてきた。現在では竹炭、竹酢も特産品となっている。竹で作った曲げわっぱに焼石を投げ込む「わっぱ鍋」が名産だが、いつから実施されているかは不明。島で鉄製品が貴重だった名残かもしれない。

6 城砦
・内浦城
 島の東岸、内浦集落の後方、丘の上にあった城。色部氏の代官が在住し、粟島統治の中心であったと考えられる。
・釜谷城
 島の南西端、釜谷集落の後方、丘陵上にあった城。海を遠く見渡すことができ、見張り所として有益だったろう。

7 建造物等
 内浦、釜谷の両集落は中世から栄えていたと考えられる。
 ・観音寺
 「やす突観音像」は、康和年間(1099~1104)に、釜谷に住む六造という人物がモリで海から掬い上げたものとされている。
 (リンク・新潟県「むらかみ・いわふね珍風景」
 「石造遺物群」として板碑が集められている。最古のものは文和3年(1354)戦国時代には島の各地に板碑が見られたと考えられる。
 (リンク・新潟県「むらかみ・いわふね珍風景」
 ・八所神社大銀杏
 令和期で樹齢600年ほどと推定されている。

8 その他
 ・野生馬
 昭和期までは野生の馬が生存していた。鎌倉時代には生息していたとされ、源義経が奥州平泉に逃れる途中に放した馬が海を渡ったものの子孫であるという伝説も残るが詳細は不明。江戸時代には50頭ほどが野山に生息していたといい、戦国時代には既に島で野生化しているものと考えられる。
 ・渡り鳥
 現代でもオオミズナギドリ繁殖地(国指定天然記念物)をはじめ渡り鳥の多い島として知られる。中世でも変わりないと考えられる。


外部リンク
粟島浦村 (awashimaura.lg.jp)
粟島観光協会
粟島(wikipedia)
粟島浦村(wikipedia)