くま城戦軍研 ―熊代城砦戦国軍事研究所

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資料室

稲城

稲城址碑。八尾市の光蓮寺門前に建つ。周囲の状況は後述(2019/11/25)

いなき
概要
 「日本最古の城」。もちろん吉野ヶ里遺跡など含めそれ以前にも城らしい建造物はあったが、明確に防衛施設として築かれた点と、合戦の舞台となった(=歴史的事項がある)という点では日本最古の城といって問題ないだろう。
 仏教受容派と廃仏派の決戦となった「丁未の乱」において、廃仏派の物部守屋が築き奮戦するも討死した。
 急ごしらえであり、その名のとおり稲藁の束で築かれた城ともいわれる。
(訪問日:2018/11/25 その後、状況は変わっている可能性があります。)

Ⅰ 所在地等
  大阪府八尾市南木の本 光蓮寺門前
Ⅱ 種別・利用法
  稲の城、防御拠点
Ⅲ 築城時期
  587年(年号なし)
Ⅳ 築城者
  物部守屋
Ⅴ 主要な事象
  「丁未の乱」で物部守屋が築き籠城、蘇我馬子・厩戸皇子軍と戦う
Ⅵ 遺構
  なし
Ⅶ 公共交通機関アクセス
  大坂市営地下鉄「八尾南」駅から1kmほど。

1 来歴
 飛鳥時代、新たに伝来した「仏教」の扱いを巡り大和朝廷は大きく揺れた。
 疫病の流行などに「宗教の正しさ」を求めるなど当時の朝廷は混乱。結果として、仏教受容派の筆頭、蘇我馬子(wiki)が力を付けていく。
 これに反発したのが、軍事集団・物部氏を率いる物部守屋(wiki)である。
 世相は仏教の容認に流れが傾き、守屋が擁立し帝位を狙っていた穴穂部皇子(wiki)までもが仏教を受け入れる。守屋は命を狙われていると知らされ、本拠地の河内に引いた。
 その中で用明天皇(wiki)が崩御。帝の弟であった穴穂部皇子は帝位を狙うが、先手を打った蘇我馬子に討たれる。馬子は穴穂部皇子と親しい宅部皇子(wiki)も討ち、守屋の逆転の目を潰したうえで河内攻略に向かう。
 世にいう「丁未の乱」(wiki)である。
 馬子の軍には仏教受容派の中核、厩戸皇子(聖徳太子、wiki)や初瀬部王子(後の崇峻天皇、wiki)といった皇族や、紀男麻呂(wiki)、巨勢比良夫(wiki)、大伴咋(wiki)などの多数の有力豪族が加わる大軍となった。
 守屋は館の守備を撮鳥部万(wiki)に任せ、自らはこの稲城を築き防戦した。
 急ごしらえで稲藁の束で築かれたともいい、櫓なども無く守屋は自ら大木に登り雨のように矢を射かけたという。それでも当時の朝廷で随一の武官である物部守屋と彼が率いる武力集団である物部氏に馬子らは苦戦、攻略は3度まで失敗する。
 苦戦する仏教受容派軍において厩戸皇子は仏教の守護者たる四天王の像を掘り、戦後必ず四天王の加護に報いることを誓い、軍の士気を高める。これを受けた大攻勢の際、迹見赤檮(wiki)は稲城に忍び寄り、樹上の守屋を射殺した。
 これをきっかけに物部軍は総崩れとなり、丁未の乱は仏教受容派の勝利に終わったという。
 以後、この城が歴史に再登場することはない。

2 構造
 稲城の具体的な構造を記す資料はほとんどない。
 築城と言っても、稲藁の束を積み上げただけのものであったともされ、それからこの名が付けられたともいう。また「物部守屋が大樹に登り矢を射かけた」とあり、櫓などの構造物は無かったのではないかと想定できる。

3 状況
 現在、城跡と伝えられる地は「光蓮寺」となっており、その門前に城址碑と解説碑が残るのみとなっている。

城址碑とその前に建つ解説碑。(2018/11/25)
八尾市光蓮寺門前、少し引いた写真。(2018/11/25)

4 その後
 戦後、初瀬部皇子が即位し崇峻天皇となる。しかし国政は馬子の専制となり、反発した崇峻天皇は馬子と対立、馬子の命を受けた東漢駒(wiki)に暗殺される。(日本史上、「暗殺された」と明言される唯一の天皇である)
 一方、厩戸皇子は戦中の誓いを守り四天王寺(wiki)を建立。崇峻天皇の後を継ぎ日本初の女帝となった推古天皇(wiki)の摂政として活躍していくこととなる。
 そして蘇我氏の専横が取り除かれ、真に天皇家中心による政治が始まっていくのは、もう少し先の話となる。

解説板
城址碑のすぐ前に建つ解説碑。この解説碑自体も昭和14年建立と文化遺産級(2018/11/25)

 稲城址
 聖徳太子が物部守屋の館のあった阿都の桑市を攻めたとき、守屋は兵を集めて、この地に稲城を構えて抗戦したという。稲城は稲で囲った城とか、稲積みの城であつたとか伝えられる。
この碑は昭和十四年建立された。
 八尾市教育委員会

周囲の状況
光蓮寺に建つ塔。このくらいの建物が飛鳥時代に建っていたら、今の日本の姿はもう少し変わっていたかも(2019/11/25)

個人的回想
 「日本最古の城」です。
 日本百名城に吉野ヶ里遺跡入ってるもん、あっちが最古でしょ?と非難を受けることは承知で言っています。
 防衛のために築かれたことが明確であり、合戦に用いられた記録すらあるこの城と、なんとなく城っぽい形状であるだけの吉野ヶ里と比較はできない、と個人的には思っています。

 にしても、日本史上最初の猛将と言ってもよい物部守屋が、大樹に登って矢を射かけていたというのは少し物悲しい。彼に一端の櫓でもあれば、赤櫟の奇襲に倒れることもなかったのでは、そしてこの戦で蘇我馬子が大きく敗れていたりしたら、後の日本の形は今ともう少し違う形になっていたのじゃないかな、と感慨に耽ったりもしてしまいます。


外部リンク
・「稲城址」(八尾市観光データベース)