くま城戦軍研 ―熊代城砦戦国軍事研究所

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資料室

江浦城(江ノ浦城)

「江浦城本丸址」の碑。なお、交通量多い国道沿いで、正面適度から写真を撮るのは困難であった。(2019/4/29)

概要
 
(登城日:2019/4/29 それ以降に状況は変わっている可能性があります。)

Ⅰ 所在地等
  福岡県みやま市高田町江浦町
Ⅱ 種別・利用法
  平城、居城
Ⅲ 築城時期
  永禄3年(1560)
Ⅳ 築城者
  永江勘解由左衛門平方
Ⅴ 主要な事象
  田尻家に属し、龍造寺家の攻撃を受ける。
  元和の一国一城令により廃城
Ⅵ 遺構
  なし。(地形は城に関係あるのかも)
Ⅶ 公共交通機関アクセス
  西鉄天神大牟田線・江の浦駅から約600m、江の浦本丸交差点

1 来歴
・永江氏時代
 永禄3年(1560)大友家家臣の永江平方が築いた永江氏の居城。
 以後、田尻鑑種(wiki)が龍造寺隆信と戦うまでの経緯は畳みます。

筑後、無風地帯から激戦区へ。鷹尾城主・田尻鑑種蠢動

 筑後は戦国時代を通じて一国を統一するような勢力は存在せず、「筑後十五城」(wiki)に代表される国人たちが割拠していたが、全てが大友家の統治を受け入れていたため比較的安定していた。
 特に大友家支配の原動力となったのが、国人の最大勢力であった名将・蒲池鑑盛の存在である。彼は蒲池から柳川に本拠地を移動。水路を縦横にめぐらせ柳川の町を築くとともに、堅城・柳川城を構築。その堅牢さは「柳川三年肥後三月肥前筑前朝飯前」と謳われるほどであった。
 
 一変する切欠は天正6年(1578)の「耳川の戦い」。この歴史的ワンサイドゲームにより戦国九州の勢力図は激変。特に蒲池鑑盛が壮絶な戦死を遂げたことで、筑後は無風地帯から一気に激戦地となっていく。
 鷹尾城主・田尻鑑種は大友氏から離れ、龍造寺氏と協力。悪名高い蒲池鎮漣の誅殺とその後の柳川侵攻、蒲池一族の殲滅にも深く関わった。
 その後、筑後最大勢力となった彼に島津義久が接近、肥後八代の支配を要請すると鑑種は承諾。この裏切りの密約が結ばれた状況下、龍造寺隆信と鍋島直茂が鑑種を鵜飼の場に呼んで暗殺するつもりらしいという噂が流れる。脛に傷持つ(そしてあの二人なら何でもやることを誰よりよく知っている)鑑種は龍造寺との決別を決意。鷹尾城を中心とする防御網を敷き、大友・島津に援軍を要請する。
 島津義久はこれに応え帖佐宗光ら約300の兵を送った。

 龍造寺隆信との決戦を決意した田尻鑑種は居城・鷹尾城の守りを固めるとともに、周辺の江浦城、堀切城、浜田城、都留城に一族郎党を派遣。それぞれに守りを固めさせた。つまりこの頃までに永江氏は田尻氏に従っていたのだろう。江浦城には城主として田尻了哲が派遣された。
 龍造寺隆信は田尻氏を攻めあぐね、田尻了哲と龍造寺家臣・百武賢兼(wiki)が知己であったことから和議を結ぶ。
 その後、和議により田尻鑑種は鷹尾城を明け渡し、島津家が筑後に侵入し、龍造寺家と争っていく中で江浦城がどうなったか詳細は不明。立花宗茂が柳川に入る時には永江氏が江浦城に入っていたようであり、戦乱の筑後の中でも永江氏は江浦城を守り続けていたようである。

・立花氏時代
 天正15年(1587)、立花宗茂は秀吉にその武功と才能を認められ、大友家から独立し独立した大名となり柳川8万石を領した。その際、江浦城には宗茂の実弟、高橋直次(城解説碑では宗増、当時の名乗りは統増か。兄ほどじゃないけど名前が変わり過ぎである)が1.8万石で江浦に入った。弟で名将として知られる直次が、8万石のうち1.8万石で入るという待遇は、宗茂が相当に江浦を重視していた証左となるだろう。なお、永江氏はこれを受けて高城(詳細不明)に引いたという。

・田中氏時代
 関ヶ原の合戦の後、筑後には田中吉政が領主として入り、柳川を居城とした。この際は田中主水正が城主として江浦に入った。その後代を経て田中河内守が入り二万石を領していたが、元和元年(1615)の一国一城令に際し、徹底的に破壊されたとされる。

国土地理院地図を利用して作成。青が低地、水色が微高、それ以外の色は更に高い。

2 構造
 現在は水田となっている西側は海であり、海と飯江川(はえがわ)に挟まれた岬上の自然微高地に建てられていた。
 城解説碑の(碑建設は昭和35年時、後述)古老の証言によると、江浦は風光明媚な海岸、渡里も海浜、徳島と中村の岬は海に面した漁村だったとみられる。
 城そのものの形状は、元和の一国一城令で徹底的に破壊されたということで不明だが、堀と石垣があった模様である。

3 状況
 国道208号線と県道94号線が交わるT字路が「江の浦本丸」という名であり、その近傍に大きな城址碑と解説碑が建っている。
 また現在でも本丸城址碑を中心に水路が方形を描き、淀姫神社を含めるとさらにもう一段、いかにも城っぽい形状に残っているのだが、詳細は不明である。 

左側が城址碑、右の小さいのが解説碑。(2019/4/29)

解説碑
城址碑の脇に建つ解説板(2019/4/29)

江浦城の沿革
江浦城は代々永江氏の居城である。天正十二年永江勘解由及び田尻の家臣田尻了哲の両士は田尻氏の本城たる鷹尾城の支城として、之を守った。天正十五年(一五八七)高橋宗増は三池郡を賜はり、江浦城を以て居城としたので永江氏は高城に引いて宗増の輩下となった其の後故あって柳川藩の臣となる。田中氏領有の頃は家臣田中河内守が当城を守った 江の浦は文字の示す通り佳の浦である風光明媚な海岸である。古老の言によれば渡里の浜は老松数株なぎさに聳え、江浦町の南方に入江あり向野開には葭生茂り。青松枝を交へたる海岸伝いに中村の人家がみえた。真帆片帆は徳島と中村の岬より。小波の上をすべるが如く透門の船着場に来る。
  昭和三十五年八月

(枠外)
  建 設 者
  江浦町一同
  永 江 神 座
  昭和三十五年九月

個人的回想
 城を訪れたのは2019年。
 当時はかなり急ぎ目の行程を組んでいるとともに主目標は鷹尾城であったこともあり、城址碑と解説碑だけ撮って満足していた城です。
 当時の僕を叱りつけてやりたい。
 城と深く関係している可能性が高い(高橋家の家紋があるらしい)淀姫神社や堀切城など近隣の史跡を全く無視しているとともに、堀っぽい周辺の水路も全くチェックしていなかったです。後で地形図を見て気づいた体たらく。
 当時の僕の不勉強ぶりの戒めとして、あえて城メモとして残したいと思います。


参考文献
※1 「日本城郭大系 18」124-125頁 (新人物往来社、昭和54年)