くま城戦軍研 ―熊代城砦戦国軍事研究所

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オタフンベチャシ

お供え餅状の構造と竪堀が見える。左端の板が解説版。(2020/8/3 撮影)

 《オタフンベ》=「砂のクジラ」。詳細は後述。
 太平洋を見下ろすように海岸に残る、御供山型チャシ。丘の中腹に築かれた環状の壕や、竪堀などが明確に残る。厚岸アイヌと白糠アイヌの戦いの戦場になったとされる。規模、遺構ともに道内でも最重要級のチャシである。
 が、私は訪問した時期が悪く、チャシには近づくことすらできなかったので、その雄姿を文化庁HPでご覧になった後で、良ければ僕の解説も読んでやってください。
 「オタフンベチャシ跡」(文化庁・文化遺産オンライン)
(訪問日:2020/8/3 それ以降に状況は変わっている可能性があります。)

Ⅰ 所在地等
  北海道十勝郡浦幌町
  国指定史跡
Ⅱ 種別・利用法
  丘頂式(お供山型)チャシ、軍事拠点として利用
ⅢⅣ 築城時期、築城者
  不明
Ⅴ 主要な事象
  時期は不明だが、厚岸アイヌが白糠アイヌを攻撃した際、白糠アイヌの最期の本拠地となり、防衛戦が実施された。
Ⅵ 遺構
  環状の空壕、竪堀
Ⅶ 公共交通機関アクセス
  JR厚内駅から約3.2km。
  浦幌町営バスの厚内・直別方面行きが週2便ある。

国土地理院HPを利用

1 来歴
 築城歴などは不明。
 厚岸アイヌと白糠アイヌの間で戦場となった伝承が残る。
 白糠の酋長が多くの財宝を持つと知った厚岸は白糠を攻撃。厚岸軍は強く、白糠軍は最後の拠点となるここに籠城し、死闘となる。
 厚岸軍は一計を案じ、砂で鯨の形を作り、魚や油で鯨のように見せかけ隠れた。食料も尽きてきていた白糠軍、敵は逃げたみたいだし鯨は打ち上げられてるしラッキー!と武器も持たずに砦を出たところを、厚岸軍に悉く打ち取られた。
 厚岸軍は白糠の酋長を葬り帰途についたが、船に乗ったところで、白糠の酋長を葬ったところから幾万とも知れぬ蜂の大群が現れ船上で逃げ場のない厚岸軍に襲い掛かる。厚岸軍はほぼ全滅、生き残ったわずかな兵は逃げ帰った。
 同様の策略は、十勝アイヌと様似アイヌの戦いでも伝わっています。
2 構造
 丘頂式、中でも環濠により段構造がみられる「御供山型チャシ」。遠くから見ると、山腹に切られた環濠のせいでお供え餅のようにみえる。

東側からの写真。山の中腹の環濠が見える。(2020/8/3)

3 状況
 壕は往時よりは浅くなっているようだが、脇の土塁とともによく残っている模様。行くなら春や秋にしよう。フキが成長すると近づくこともできない。
4 特徴
 チャシそのものの規模と明確に遺構が残る良好な保存状況から、チャシの代表的な存在とも呼ばれる貴重なチャシ。

解説板
かなり消えかけている解説版。巨大なフキに阻まれ近づいて読むことすら困難(2020/8/3 撮影)

史跡オタフンベチャシ跡
一、指定年月日
 昭和五十六年 八月二十九日
二、指定の理由
 特定史跡名勝記念物及び史跡名勝天然記念物指定基準史跡二(その他の政治に関する遺跡)による
三、説明事項
 史跡オタフンベチャシ跡は、白糠丘陵が太平洋に半島状に突き出た半独立丘陵の先端に構築されたいわゆるお供山型のチャシ跡である。
 標高二十七メートルの上部平坦面は、東西約二十一メートル、南北約七メートルの長方形を呈し、標高二十二メートル付近に深さ約一メートル、幅約五メートルの空壕をめぐらしている。
 お供山型チャシ跡の典型的なものであり、チャシの代表として貴重である。
四、保存上注意する事項
 ここは文化財保護法に基づく史跡ですから、無断で立入ったり、土地の形状に変更を及ぼすような行為(発掘調査、建築・土木工事及び土砂採取等)を禁止する
五、その他参考となるべき事項
 所有者  斎藤 兵四郎
 管理団体 浦幌町

昭和五十八年十月一日 文部省
浦幌町教育委員会

白糠アイヌvs厚岸アイヌの戦い

 白糠アイヌと厚岸アイヌは数度に渡って戦いを繰り広げている。
 一つは、白糠にあるサシウシチャシに関する伝承に残る。
 サシウシには昔、ホルペチャ・カムイ・メノコという美しい女酋長がいた。立派な宝を持つと聞いた厚岸の酋長が奪い取ろうと不意に攻め寄せてきた。女酋長は少しも騒がず、神の助けを乞う祈うたところ旋風が起き、攻め登っていた厚岸勢は皆殺しになったという。
 オタフンベチャシにも、白糠が立派な宝を持っていたことを知って厚岸が攻め込んできた伝承があるが、これはまた別の戦いっぽい。
 「日本城郭大系」のオタフンベチャシの項(※)から引用する。
(砂鯨の計にかかり、白糠軍が厚岸軍に打ち破られているのをみた)「白糠酋長は、チャシから出て戦ったが、敵の放った矢が急所の睾丸にあたってしまった。そこをオプショマイナイ〈睾丸を破られた沢〉という。重症に屈せず奮闘していたが、小川を飛び越えた際に睾丸がちぎれて落ちて死んでしまった。そこをノコマイナイ〈睾丸の落ちた川〉という。チャシは落ち、戦いは終わった」
 で、この後に厚岸軍は蜂に刺されてほぼ全滅するわけです。

 この二つの戦いは、場所や結末、白糠酋長の性別から別の時代だと思われます。どっちが先かはわからないものの、オタフンベチャシを落とされた白糠が旧領を取り返すほどの力があったか?というと難しくも思え、女酋長の話の方が古い時代なのかな、とは思います。

周囲の状況
チャシのすぐ近くにある、乙部海岸の看板。車で来た場合は、ここに駐車すると良いでしょう。(2020/8/3)
駅とチャシの間を、かなり急ぎ目に歩いている時に通っていった特急。人っ子一人いない道を、時間と戦いながら駅に向かっている時に見える「札幌行」の文字の破壊力よ。(2020/8/3)

個人的感想
 厚岸対白糠の因縁の対決…なのだけど。
 チャシが大量に現存し、多くのアイヌが住んでいたとみられる釧路を飛ばして厚岸が白糠に攻め込むという状況が少し不思議。厚岸は、武闘派十勝アイヌや美幌アイヌの伝承にもあまり出てこない気もします。厚岸に現存するチャシの位置や、白糠との戦いの様子を見るに、厚岸のアイヌは海洋民族で、海沿いにいる他の集落を海から襲撃するような連中だったのかも?と考えます。
 アイヌの戦いの伝承は、時間軸という決定的な要素が抜けているために、なかなかに状況を感じるのが難しいです。


外部リンク
 浦幌町HP「オタフンベチャシ跡」 ここの写真も構造が分かりやすいです。
参考資料
※ 「日本城郭大系1」119頁 (昭和55年 新人物往来社)