くま城戦軍研 ―熊代城砦戦国軍事研究所

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菱(ヒシ)

江戸時代の農業図鑑「成形図説」より。wikipediaから転載。CC4.0に基づき利用しています。

実を食用 ・焼酎の原料にも
フトモモ目ミソハギ科ヒシ属

1 概要
 化石でも発見される、有史以前からの日本在来種。
 池や沼の湖底に根付き、水面に空気を含む葉を浮かべる水生植物。中国から台湾、ロシア極東地方まで自生する。水辺で繁殖する植物で、水辺が整備された現在では数が減っているが、往時には全国いたるところの水辺でみられた。
 実にデンプンが多く貯蔵され、古来より食用とする。アイヌ語でも《ペカンペ(水の上にあるもの)》と呼ばれ、湖畔集落の主用な食料となった。
 食用となるだけでなく、その特徴的な形から「撤菱(まきびし)」として兵器としても利用されたという。

2 戦国前略史
・縄文時代、弥生時代
 日本在来種で、古くから食用に利用されていた。
 日本のみならず周辺各地にも広く分布しており、特に中国華南地方において盛んに利用され名産となっていく。
・奈良時代
 引き続き日本各地で採集され、菓子として食されていたとみられる。
 和歌において、水上になる菱の実を「貴方を思いつつ袖を濡らして取る」という情景を、一人で過ごす夜のさみしさに「貴方を思いつつ(涙で)袖を濡らす」にかけ、季節の情景に恋心を忍ばせて詠むのは恋歌の定番で、万葉集にも収録されている。
 埼玉県宮代町の町史によると、平城京の長屋王の邸宅からは、「武蔵国策覃(埼玉)郡の駅から菱子一斗五升が送られた」旨の荷札が出土している。
(→「宮代町史 通史」デジタル版 該当ページ
 土地の名産として食されていたことが想定できる。
・平安時代
 「和名類聚抄」(資料集)では菓蓏部(木の実、草の実)に「菱子」が載るが詳細は不明。
 平安時代初期の「延喜式」においては「菱子」は菓子に分類されており、その後の記録でも宴席などの食事の際に菓子として添えられていることが多い。「水栗」との表記もあり、味や食感が近い栗のような食べ方をされたのだろう。
・鎌倉時代~室町時代
 室町時代の「庭訓往来」「尺素往来」でも引き続き菓子として記載(参考※1)特に目立つことはないが、引き続き、全国で食されていると考えられる。
・北海道の状況
 北海道においても多く自生しており、有史以前から人類が採集していたと考えられる。
 アイヌ文化でも《ペカンペ(水の上にあるもの)》と呼ばれ重用されていた。
 道東の春採湖、シラルトロ湖、塘路湖などの湖では湖畔のコタンを支える重要な食料であり、日高の沙流川などでも採集されていた。でんぷんが豊富であることから穀物の替わりとなり、秋に採集して冬季の保存食とできる点として貴重であった。標茶町や平取町の資料によると、生で食べる他、《サヨ》(粥)や《シト》(団子)にしたり、《オハウ》(汁)や離乳食にも利用された他、地域によっては《トノト》(酒)を造ってもいたようである。(参照先はページ下部に記載)

3 戦国時代
 引き続き、全国で食されているものと考えられる。栽培が組織的に行われているのかは不明ではあるが、干拓などが進んでいない戦国時代では、各地の池沼において、現代とは比べ物にならないほどに多く見られるはずである。収穫の時期には、そこらの水辺で採れ、そのまま生食する子供たちもいたことだろう。
 食べ方としては生で食べられる他、料理としては焼く、煮る、あるいは穀物と混ぜて炊く、など多彩な方法で食されていた。
 また、大型で角が四本生える「オニビシ」は、忍者によって兵器「まきびし」としても用いられていたともいう。(「8 文化」において後述)

4 戦国後略史
・江戸時代
 江戸時代においても引き続き、採集され食料とされていた。江戸時代の農書には栽培法も収録されており、産業としての栽培も定着してきたと考えられる。
 一方、江戸時代においては干拓により湿地が急速に減っていったことから、全国的に生育地は減っていったものと思われる。
・近代~現代
 平安時代の古くから貴族たちが恋になぞらえて採取し、近年まで子供たちの気軽なおやつですらあった菱だが、近代以降、日本各地で治水工事が進んだことで川や沼の水辺は一気に減ったため、生息域は急速に減っていった。特に小型の「ヒメビシ」は、絶滅危惧種となってしまうほどに数が減っている。
 現在では江戸時代以前に築かれた水路が多数通る佐賀県などで栽培されており、神埼市では特産品として力を入れ、焼酎などを作っている。

5 栽培条件
・栽培方法
 水辺や水路で自生する植物で、栽培は容易。
 自然界では秋に種が水底に落ち、次の年の春に芽吹く。栽培する場合は、水田などに春に種を蒔く。その後、茎が伸び、水中では節から根を出し広がりつつ、水面に茎をのばし、中空部を持つ葉を水面に広げていく。
 夏~秋に花を咲かせる。
 秋に実を収穫する。実には二本の鋭い刺がある。水面で収穫しないと、自然に水底に落ちてしまう。
・栽培注意事項
 水深が深すぎたり、変化すると育ちが悪く、1m余りが良い(※1)。
 栽培は容易で、猛暑の際などは繁茂しすぎて悪影響となることもある。

6 食品特徴
 種実の皮を剥き中身を食する。
 炭水化物(でんぷん)を多く含み、主食足りえる栄養を持つ。栄養としてはビタミンB1、葉酸が特徴的。生のままでも食べられるが、「灰汁(あく)」が多いため、水にさらすなどして灰汁抜きして調理する方が美味しい。
 穀物と混ぜて炊きこむ、焼いてそのまま食するなどの食べ方がある。アイヌは《ペカンペ》と呼び、穀物のように粥や団子にして食する。

7 派生種
 大型の実をつける「オニビシ」、小型の「ヒメビシ」の派生種が存在。
 種の刺が二本の「ヒシ」と違い、「オニビシ」や「ヒメビシ」は四本の刺をもっている。特に大型の「オニビシ」は、常に刺の一つが上を向く特徴から、兵器「撤菱(まきびし)」として利用されたという。

8 文化
・菱型
 四辺の長さが等しい四角形を「菱型」(wiki)と呼ぶ。
 植物の菱と関連しているのは確かなのだが、「植物の菱に似た形なので菱型」なのか、「菱型をしている植物なので菱」なのか、つまりどちらが先に存在したのか不明である。また、菱型をしているのも葉という説と実という説がある。
・撤菱(まきびし)
 特に大型になり刺が四つある「オニビシ」の実は、兵器として利用されたというが、実用性には疑問符が付く。非常食としては携帯しやすく、いざというときにも兵器になるとすれば有用だと思われる。

9 戦国活用メモ
 近世以前において、現代日本とはくらべものにならないほどに多くみられるであろう植物の一つである。
 食料として有用であることは古代より認識されており、戦国時代においても食物として貧富を問わず利用されている。地位に関わらず食する機会は多いだろう。
 積極的に栽培する機会があるかは微妙だが、栽培も極めて容易である。


参考文献
(※1) 「野菜の日本史」293頁 (青葉高、八坂書房、2000)

外部リンク
 「デジタル宮代町史 通史」 131-134頁(ADEACのページに飛びます)
 標茶町「シベチャの始まり」(塘路湖は菱の名産地で多くのアイヌが住んだ)
 平取町「沙流の水辺とペカンペ」(平取はアイヌ文化の中心地のひとつ)
 神埼市「おみやげ」菱焼酎、ひしぼうろなど

内部リンク
 資料集「和名類聚抄