概要
大宮公園駅の近く、寿能公園が本丸跡。
太田資正の四男、潮田資忠が入り、大宮・浦和などを治める拠点としたが、築城の30年後には豊臣家の浅野長政率いる軍に攻略され、短い一生を終えた城である。
今や地形は大きく変わっているが、かつては見沼沼沢に囲まれる要害で、城の規模も東西約870m、南北約470mと大きな規模の城であった。
江戸時代以降は大いに発展する大宮地区だが、その発展の礎を築いた北沢氏はここ寿能城の家老だった家系である。また、落城時に見沼に身を投げた姫の逸話が伝わっている。
(登城日:2023/1/1 この先、大きくは変わらないでしょう。)
Ⅰ 所在地等
埼玉県さいたま市大宮区寿能町
(埼玉県指定史跡)
Ⅱ 種別・利用法
平城、居城として利用
Ⅲ 築城時期
永禄3年(1560)
※ただし領主を命じられたのが同年大晦日であり、実際築城は翌年か
Ⅳ 築城者
潮田資忠
Ⅴ 主要な事象
天正18年(1590)、豊臣勢に攻略され落城
Ⅵ 遺構
墓碑が残る高台は櫓台の跡か。
Ⅶ 公共交通機関アクセス
東武野田線「大宮公園駅」から600mほど。氷川神社から1kmほど。
住宅地の中、「寿能公園」に解説碑等。近くの交番前に別の城址碑がある。
(周辺地図は「2 構造」で掲示)
1 来歴
永禄3年(1560)12月晦日、岩付城主太田資正は潮田出羽守(資忠)に「大宮、浦和を領し、木崎、領家(共に地名、現・浦和区内)まで進めよ」と命ずる。資忠は資正の四男(五男とも)だが母方の潮田氏を継いでいた。この際に築かれたのが寿能城である。
その後、資正は北条家に反旗を翻し、結果として子の氏資に岩付城から追い出されるが、資忠は兄の氏資に従い、引き続き北条家に仕えた。
(この辺りの動きは、HP内資料集「太田氏の動静」に簡単にまとめました)
天正18年(1590)、秀吉による小田原攻めに際し、潮田資忠は子の資勝とともに小田原城井細田口を守り戦死。寿能城も家老の北沢宮内直信らが守っていたが、浅野長政率いる二万の大軍に攻められ落城した。
その後、北沢宮内は伊奈氏に仕え、周囲の開墾に功があり、寿能城跡地を与えられ居住していた。寛永元年(1624)中山道の整備などに伴い大宮の町が成立すると、一族揃って転居。紀州鷹場本陣を守った。
(住居は現在の大宮駅前の高島屋。屋上の稲荷(大宮タカシマヤHP)は北沢氏由来。元は城の出丸にあった「寿能稲荷」を転居の際に移転したものか。なお、北沢氏の末裔が「日本近代漫画の開祖」北沢楽天(wiki)である)
以後、雑木林となり土塁などは残されていたが、大戦時に高射砲陣地として整備され、遺構は失われた。
2 構造
東西約873メートル、南北約436メートルあり、見沼沼沢に囲まれた要害であったとのこと。
江戸時代後期に書かれた「新編武蔵風土記稿」(参考※2)には、「西向きの一方のみ平地つづき、西南によりて大手と唱うる所あり、そこには今も高二間、幅五六間の土手二つあり」とある。この土手は近代まで残っていたと思われる。
現在でいうと東端は見沼代用水路西縁、南端は競輪場などがある低地とみられるので、大宮公園駅を越え宇都宮線くらいまでは城跡だったか。
東部にはさらに見沼に突き出た「出丸」があったとされている。(「3 状況」にて後述)
また、近くの寿能交番前には「寿能城址」の立派な碑が建っている。
3 状況
現在では寿能公園に櫓台跡を利用したともされる高台などがある。
「新編武蔵風土記稿」(参考※2)によると「又本城の跡に高さ二間より三間(約3.6~5.4m)許なる物見塚と云ものあり、当時櫓などの跡なるにや、その塚上に(中略)出羽守資忠の墓碑あり」とある。現状と合致することから、今の高台もこれを引き継いでいる可能性もある。
一見すると外構えの遺構は存在しないが、地形に城の名残は感じられる。特に、大宮第二公園の「出丸」は城跡らしい地形である。
下記に、国土地理院HP掲載の航空写真を利用して作成した、昭和42年当時の状況を示す。この年は見沼田んぼのど真ん中に大宮市営球場(現・レジデンシャルスタジアム大宮)が完成した年であり、球場のある低地と、既に家が建っている微高地(=出丸)が分かりやすい。
「出丸」の現況については畳んで解説します。
「出丸」の状況
「日本城郭大系」(参考※1)には「見沼代用水路西縁(享保12年(1727))を隔てた約2.5haの地は、文字通り出丸があった土地と考えられ、このあたりにはいくぶん城址らしい雰囲気が感じられる」とある。
現在でも用水路を越えて微高地となっていることが感じられる。
現在の河川敷レベルの土地は、当時は全て見沼湿地帯であったことを鑑みれば、出丸としての存在感を感じることができるだろう。
また、現在では享保時代に将軍吉宗の令により完成した「見沼代用水西縁」により城本体と別れているが、そこに架かる小さな橋は「潮田橋」と名付けられており、そのほとりに解説板が建っている。
4 伝承
寿能城には、落城時に命を落とした笛の名手である姫と、蛍にまつわる逸話が伝わっている。いろいろなところから集めた切れ端をまとめて記す。
寿能城の姫と、大正の少女と、蛍の悲話
大正から昭和初期ほど、この地域に「小笛」という笛の上手な少女が住んでおり、良く外で笛を吹いていた。6月の終わりごろ、見沼に蛍が飛び交う時期、彼女が笛を吹いていると、蛍が飛び交い、どこからか笛の音がした。
そして、蛍の一匹が少女を導くように飛ぶ。少女がその後を追い竹藪に入っていくと、そこでは古い装束を来た姫が笛を吹いていた。少女は笛を取り出し、ひとしきり二人で笛の合奏を楽しんだ。
その後、姫は少女に経緯を語る。
(氷川神社さんの話では、小笛は笛の音を追い竹藪の中で井戸を見つけ、そこから出てきた大きな蛍にこの話を聞く、とあります。また、見たこともないお屋敷が建っており、侍女が現れ案内され姫に会う、後日村人と探したがお屋敷は発見できなかった、という話もあります。諸説あり)
曰く、姫はかつて寿能城に住んでおり、笛が好きだった。
(名を「能姫」という話もあり)
ある日軍に攻められ、一族郎党は討死し、女子供は見沼に身を投げた。それを哀れんだ見沼の竜神は、年に一度の蛍の時期に、蛍の化身として笛を吹かせてあげよう、と告げた。以来、この地にあり続け、年に一度蛍となり笛を吹いていた。最近、上手な笛の音が聞こえてきて気になっていた。笛の主に会えて嬉しい。ただ、あの戦いでは私以外にも多くの人がこの地で命を落とした。もし可能であれば、我々寿能城の一族を弔うよう、村人に伝えてくれないか、と。
彼女は帰って村人にその話を伝えた。村では潮田氏の一族の姫であろうと察し、潮田資忠の墓の近くに青い石の供養塔を建て、資忠戦死の日と伝わる四月十八日に併せ供養を行うようになった、という。
その供養塔は、大戦時の高射砲陣地の建設の際に遺失したといわれ、現存していない。
解説板
(句読点を配します)
寿能城跡
ここは寿能城本丸の跡と伝える。
寿能城は潮田出羽守資忠の居城である。
資忠は岩槻白鶴城主太田資正の第四子で母方潮田家をつぎ永禄三年(一五六〇年)ここに築城。大官、浦和、木崎等を所領とした。
城地は東西約八七三メートル、南北約四三六メートルあり見沼沼沢をめぐらした要害で、東方に突出した小高い所を出丸と呼び 今も寿能という小字名を残している。
資忠は小田原の北条氏に属し天正十八年(一五九〇年)長子資勝とともに小田原にろう城し奮戦したが 四月十八日父子ともに討死し、家臣北沢宮内等が守備した当城も同年六月豊臣勢の火にかかって落城した。
墓石は資忠の没後五十年の命日に、代の子孫潮田勘右衛門資方が、弟資教にしるさせたものである。
大正十五年県史跡に指定されたが、太平洋戦争中、高射砲陣地として雑木林は開墾され、今また、新市街を現出するに至り、その一部を市の小公園として永く保存することとなった。
その他の写真
個人的回想
氷川神社に初詣に行ったついでの城始めでした。
寿能城の姫の話は、これだけでお話一本書けそうなくらいないい題材だと思うですが、あまり現地などでも解説などはないようです。まあオカルトだから仕方ないとは思うのですが、慰霊碑がどうなってしまったのかは気にはなります。
7月に近傍に用事があったので資料再収集。
撮り忘れていた交番前の城址碑のほか、出丸関連の資料を増強しています。
交番前の城址碑を撮って満足して帰ってしまった、という失敗談が多く聞かれる城ですが、私は逆をやってしまいました。
これを見て行かれる方がもしいたら、お目当てを逃されぬよう!
参考文献
(※1)「日本城郭大系 5」 55-56頁
(※2)「新編武蔵風土記稿 第8巻」(雄山閣、H8)87頁
(元本は「巻之百五十三 安達郡之十九)
外部リンク
「氷川神社公式note ~第117回「ホタルの伝説」」(城の姫の伝説)
「大宮タカシマヤ 北沢稲荷大明神」(高島屋のHP、北沢氏関連記述)
内部リンク
資料集「太田氏の動静」
更新履歴
R5.1.9 「新武蔵風土記稿」の記載に合わせ改訂
R5.7.17 資料再収集に伴い、「出丸」など改訂