くま城戦軍研 ―熊代城砦戦国軍事研究所

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資料室

太田氏の動静

1 概要
 名将太田道灌から頭角を現し、首都周辺の歴史を追うのに絶対に外せない名家である。戦国時代に華々しい活躍を見せる太田一族だが、戦国乱世の中で消えていった…と思っていたら、不思議な復活を遂げた。
 大名になった太田家の転封続きの歴史もありまとめるものである。

2 岩付太田氏
 道灌は甥の資家を養子とした。
 この資家の系統が「岩付太田氏」とされ、江戸城を継いだ「江戸太田氏」と比肩し、道灌が築いた岩付城を継いだ、という話がよく聞かれる。しかし岩付城を築き治めていたのは古河公方の家臣、渋江氏だったという。大永4年(1524)に資家の子、資頼(道可)が岩付城を攻め落としたのが岩付太田氏の始まりとなるか。資頼の子が資顕、その弟が三楽斎資正(道誉)である。(参考※1)
 資正登場までの状況は畳みます。

岩付太田家 永厳、資頼、資顕の補足

 備中守永厳は、資家の子供ともされるが関連性は不明。資家の後に太田氏の首領的な立場、かつ扇谷上杉家の重臣として活動しているともみられる(参考※2)。
 一方、後述の資頼(こちらは明らかに資家の子。資料によっては永厳の弟ともされる)が北条氏綱の支援を受け岩付城を攻略した際、永厳は渋江氏とともに城を守ったという資料もあり、家内での立場は微妙に感じられる。私見だが、扇谷上杉家に従順だった永厳が、資家の替わりに太田氏当主とされ、岩付統治に利用されたのではないか、とも考える。

 大永4年の資頼の岩付城奪取を簡単にまとめると
1 資頼、北条氏綱の後ろ盾を受け、扇谷上杉家に反旗
2 古河公方家臣渋江氏(=扇谷上杉勢力圏)の岩付城攻略
 (永厳は扇谷上杉に付いた可能性あり)
3 扇谷上杉は甲斐の武田信虎に援軍を要請
4 武田軍は岩付城を攻撃し資頼は降伏。扇谷上杉に寝返る。
5 北条氏綱は渋江三郎を擁して岩付城を攻撃
6 資頼も奮戦するが落城、石戸城に撤退
 同時期に扇谷上杉朝興の居城、江戸城も北条氏綱の支援の元で太田資高の攻撃を受けているが、連携していたのかは不明である。その後、資頼は享禄4年(1531)に岩付城を再度奪還、渋江三郎を戦死させている。

 子の資顕(全鑑)の代には北条家は氏康の代となり、勢力をさらに拡大。河越城が落城し、岩付城は北条家に囲まれる形となる。一方、そんな中で資顕は北条家に寝返り、河越夜戦の大勝の立役者の一人となる。

 資顕の跡を継いだのは弟の資正。はじめは北条家に従っていたが、後に関東に攻め入ってきた上杉謙信に呼応、反北条の第一人者となる。
 長年北条派と争い武名を挙げるが、第二次国府台合戦にて敗北。親北条派の嫡男・氏資に裏切られ岩付城を失う。その氏資も三船山合戦で若くして戦死、氏資の娘婿として氏政の子が太田源五郎として太田氏を継ぐがこれも早世。岩付城主としての太田氏は途絶える。

(太田資断絶後に岩付を治めた氏政の子、「北条氏房」が太田氏を継いだ源五郎と同一人物という説も古くからあり、太田氏房とする記載も多いが、氏房が太田を名乗った証拠がなく、現在は太田氏資の娘婿・源五郎とは別人という説が有力である。)

 資正の次男・梶原政景や三男・資武などは結城家に仕える。資武の子孫は越前藩に仕えるが、いろいろあって江戸中期に断絶。
 太田資正の子では母方の潮田氏を継いだ寿能城主資忠の子、資政が古河藩に仕え、家名を繋いでいる。

3 江戸太田氏
 道灌の子・資康の系統、資高、康資と続くのが「江戸太田氏」。
 第二次国府台合戦までの状況は畳みます。

江戸太田氏 資康、資高、康資の補足

 道灌が扇谷上杉定正に謀殺されると資康は家督を継ぎ江戸城を守るが、文明18年(1486)定正に奪われ、甲斐国に脱出した。江戸城は扇谷上杉家の居城とされる。定正の死後に朝良が継ぐと、資康は扇谷上杉家に復帰した。資康の跡は子の資高が継ぐ。

 永正15年(1518)朝良が死去し朝興が扇谷上杉を継ぐ。はじめは新興勢力の北条氏綱らと組み山内上杉と戦う姿勢を見せた朝興だが、北条家の成長に危機を覚え大永4年(1524)に山内上杉憲房と和睦。北条氏綱は両上杉をもろともに相手にする決意を固め、扇谷上杉の居城、江戸城を攻撃し落城させた。資高はこの時に参戦したとみられるが、江戸城主となることはできず、3人いる城代の一人とされた。資高の跡は長男の景資ではなく次男の康資が継いだ。母が氏康の養女(同じく江戸城代だった遠山綱景の娘)であることを考慮されたという。
 景資は康資を補佐するが、松山城において戦死した。

 康資は武勇に優れ、戦記物などでは巨躯怪力の偉丈夫として知られる。八尺の鉄の棒を振り回し、馬をも殴り殺していたあの太田さんである。
 「小田原衆所領役帳」によると江戸西部に岩淵五ケ村をはじめ多くの所領を持っており、稲付城などを所持していたとみられる。
 1562年、太田資正の仲介で上杉家に寝返りを画策。理由ははっきりしないが、江戸城代という立場が不満だったともされる。しかし寝返りは失敗し、資正の元に逃亡する。氏康は太田氏の松山城を攻撃。上杉謙信はこの救援を里見家に依頼し、里見家は義弘率いる援軍を派出。第二次国府台合戦が勃発するが、太田・里見軍は敗北する。

 第二次国府台合戦で敗北した康資は安房に逃亡し里見家に仕える。
 その後、里見家の家督争いにおいて正木憲時に与して戦死したとも、資正を頼って佐竹家に移動したともいわれ、一方で室は天正16年(1588)に安房で死んだと(参考※3)ともあり、正直なところ、よくわからない。
 康資の弟、輝資は兄に従わず、同じく父に従わなかった太田氏資とともに岩付に残り、以後も北条家臣として活動した。北条家滅亡後は家康の誘いを受けるが断り、谷古田(現在の川口市東部、峯ヶ岡八幡宮のあたりか)隠遁したという。
 康資の子、駒千代は熱海医王寺に預けられていたが、康資が北条家を裏切ったので殺された。
 これにより江戸太田氏は滅亡した、と思われていた。

3 江戸太田氏復活
 北条家滅亡後に関東に移封された徳川家康は、関東武家に縁のある者たちを積極的に集めていた。単純に領土が増えて人が足りなかったのに加え、関東統治に有利となるという計算もあったのだろう。
 太田康資の子、太田重正(資綱)が歴史に登場するのもこの頃。佐竹家にいた太田資正を頼ったといい、重は佐竹義重の諱か。天正18年(1590)に家康に仕え、翌年には蓮沼(現・板橋区)で500石を得ている。
 同時期に登場するのが、重正の妹で後に家康の側室となる「おはち」。康資の実子とも、江戸重通の娘で康資の養女ともいう。家康の命で「おかち」に変えたとされ、小説などでは「お梶の方」表記が多い。落飾後は「英勝院」。聡明で知られ、家康にも寵愛された。

自称太田康資の子供たち、怪しい

 太田重正とおはち、太田康資の子供を名乗るこの二人が「怪しい」というのは昔から議論の対象となる。

 重正の子、資宗が出世して大名になっていく過程で、資宗もその出自を明らかにする必要に迫られ家系図などが発表されていくのだが、そもそも重正おはち兄妹の出自が怪しい。
 父の太田康資は道灌の曾孫という戦国関東の名家だが、その最期がどうなったのかは微妙。資正を頼り佐竹家にいたという重正の言が正しいのなら「父の康資が佐竹家にいたのかいないのかわからない」という現状はどうなのだろう。
 二人は母方の遠山氏に育てられたという説もある。おはちを家康に推挙したのは北条家臣遠山氏の遠縁にあたる明知遠山氏遠山利景(美濃明知の領主だった遠山氏、家康関東移封時に家康に従い上総に所領、江戸時代に美濃に復帰した)とも、その兄と噂される天海とも言われる。しかし北条家臣遠山氏も、第二次国府台合戦で多くの戦死者を出しており、遠山政景が還俗して家を継ぐがその後は君主の早世が続き、北条氏滅亡後は行方知れずとなっており、この兄妹との関連は本当かどうかよくわからない。
(そもそも天海が絡んでくると何もかも怪しい)
 また、資正の世話になったというが、資正とともに佐竹家で過ごした次男の梶原政景や三男の資武は結城家に仕えそのまま越前藩に仕えており、特に資武の系統は曾孫の尹資の代に下野する憂目にあっているのだが、資宗以後大名となった太田家がこれを助けたようにも、尹資らが大名・太田氏を頼った形跡もなく、太田氏伝来文書などは寺に嫁いだ娘に伝えている。
 関連性でいえば、康資の弟で康資を放逐した輝資は川口にて隠遁しているはずなのだが、彼との関連もまるでみられない。
 そもそも、太田氏が一貫して名乗っている「資」がついていない重正(佐竹義重と太田資正から一字ずつもらった、というが)の太田氏らしからぬ雰囲気が怪しい。
 そして、そんな怪しい重正の子の資宗が、叔母の養子として増封を繰り返し大名になり、全ての武家の系譜をまとめ以後系図の神様といえる存在になる「寛政譜家系図伝」作成事業の奉行となり、太田家の系図も作成しているのが怪しさに拍車をかけるのである。

 重正の死後、遺児の資宗が英勝院の養子となり、10歳で家督を継承。
 英勝院は幕府内で春日局に匹敵するほどの力を持っていたとされ、その意向もあってか急激に出世を遂げ、ついには大名に至ることになる。

4 大名太田家の歴史
 中堅以下譜代大名にはありがちではあるが、太田氏は転封がとても多く、その流れを追っていくだけでも大変である。
 その歴史を列挙してこの項を締める。本項では元号を省きます。

江戸時代の江戸太田家

太田資宗
(大名・旗本の系譜図をまとめた「寛政譜家系図伝」の奉行)
1610年 10歳で家督相続(武蔵国蓮沼で500石)
    以後、1629年まで着々と加増を受け、武蔵国高座郡などで5600石
1633年 「六人衆」として幕政の中心に。(後の「若年寄」にあたる)
1635年 下野国山川にて1万石加増、15,600石山川藩成立
1638年 加増され尾張国西尾に移封。35,000石西尾藩復活
   (山川藩は3年の短い命を終えた)
1643年 「寛政譜家系図伝」完成
1644年 35,000石浜松藩に移封

太田資次
1671年 家督相続時、弟に分知(32,000石)
1678年 加増、大坂城代拝命(52,000石)

太田資直
1684年 家督相続時、弟に分知(50,000石)
    同年、土屋家と入れ替わりで駿河田中藩に移封(50,000石)

太田資晴
1705年 家督相続、同年陸奥国棚倉藩に転封(50,000石)
1728年 若年寄となり上野国館林藩に転封(50,000石)
1734年 大坂城代拝命(50,000石)

太田資俊
1746年 遠江国掛川藩に転封(50,000石)
 当地にて幕末を迎える


参考資料:
(※1)「岩付太田氏の系譜と動向」(黒田基樹)
(※2)「太田永厳とその資料」(黒田基樹)
(※3)「江戸太田氏と岩付太田氏」(黒田基樹)
 ―ともに「論集 戦国大名と国衆12 岩付太田氏」より

内部リンク
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