くま城戦軍研 ―熊代城砦戦国軍事研究所

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資料室

赤羽・岩淵

中世:武蔵国岩淵郡
江戸時代:武蔵国岩淵領
明治時代:大宮県から紆余曲折を経て東京府北豊島郡岩淵町
昭和(戦前):東京市王子区
現代:東京都北区

 本項では、現在の東京都北区赤羽周辺、かつての岩淵郡五ヶ村「岩淵(岩淵本宿)」、「赤羽根」(現・赤羽 等)、「下」(現・志茂)、「袋」(現・赤羽北 等)、「稲付」(現・赤羽西 等))について記載する。

国土地理院HPから作成

1 概要
 岩淵は中世以前から荒川(入間川)を利用した水運拠点として、また岩槻街道の渡河地点として繁栄していた。戦国時代には太田道灌が城を築く。(城メモ「稲付城」)
 江戸時代には引き続き日光御成町の街道宿場町となる。将軍家専用街道としての色付けが強い御成道にあって、日光街道の千住などのような宿場町のような繁栄はみられなかったが、引き続き水運の拠点となる。
 明治以降、赤羽駅の開設に伴い赤羽が発展を遂げてゆく。

2 戦国前略史
・縄文時代~弥生時代
 縄文海進により、関東地方の低地は広く海底であった。赤羽台は武蔵野台地の東岸として東京湾(奥東京湾)に面する好立地であり、縄文~古墳時代の遺跡、「道合遺跡」が発掘されている。
・奈良時代~平安時代
 延暦3年(784)、蝦夷討伐に出向いた坂上田村麻呂だがこの地で進軍を止め、周囲から兵を集め陣容を整えたといい、この時に勧進されたのが現在も残る「赤羽八幡神社」(神社公式HP)だという。海面は縄文時代より下がったとはいえ、川沿いの低湿地はまだ進軍を阻むようなものだったのかもしれない。
 平安時代になると武蔵は秩父氏系の武士団により席巻されていく。
 治安3年(1023)、秩父武常は平塚城(城メモ、現・上中里駅前)に館を築き、豊島氏となる(その子孫、秩父康家が開祖とも)。以後、岩淵は長く豊島氏の勢力圏となる。

・鎌倉時代~南北朝時代
 鎌倉幕府は鎌倉を起点とする多くの道を築いたが、そのうちの一つが「鎌倉街道中道」で、鎌倉から江戸の西方を通り、川口、岩槻、宇都宮、白河から奥州へ抜ける道だった。岩槻街道(岩付街道)とも呼ばれる。鎌倉から「二子の渡し」(現・二子玉川)で多摩川を渡り、現在でいう渋谷、池袋あたりを北上し岩淵と川口の間で荒川(入間川)を渡河した。随筆「とはずがたり」(wiki)には岩淵が宿場として栄え、遊女もいたことが記されている。
 豊島氏は鎌倉幕府創建の際に活躍するが、南北朝時代には関東管領上杉家と対立。応安元年(1368)年、「武蔵平一揆の乱」(wiki)に敗れ所領を没収される。応永2年(1395)に所領返還された後は本拠地を石神井城に遷すが、旧領にも影響力を保っていた。

・室町時代~戦国時代初期
 室町時代においても岩淵は鎌倉街道の渡河拠点、また水運拠点として栄えており、室町時代に関所が設けられた。場所は不明だが、鎌倉時代に役所があったところといい、渡場があった現在の八雲神社前あたりとされる。
 戦国時代初期、関東公方足利家と関東管領上杉家が関東の覇を競う中、関東地方の戦国時代の幕開けともいえる大合戦「享徳の乱」が勃発する。
 この乱の最中、扇谷上杉家の家宰・太田道灌が江戸城(長禄元年(1457))、河越城を築いた。そして江戸と岩付の間に位置する岩淵には、太田道灌によって「稲付城」が築かれた。(現在のJR赤羽駅付近)
 その後、長尾景春の乱の中で石神井城の豊島氏を打倒し勢力を増した太田道灌だが、これを危険視する主君・扇谷上杉定正に討たれる。定正が江戸城に入ると、岩淵も扇谷上杉領となったとみられる。
 正長2年(1492)には、岩淵と小川口を結んだ橋がかけられ、橋賃を取っていたという(参考 ※3 孫引きご容赦)。一方、以後長きにわたって渡し船も活用されていくことから、一時的な船橋のようなものが掛けられていた時期があるのかもしれない。

3 戦国時代
 引き続き、岩淵は岩槻街道と荒川(入間川)の水陸交通が交わる要衝として栄えていた。
 大永4年(1524)、両上杉と戦うことを決意した北条氏綱が太田資高とともに江戸城を攻略する。その際、江戸城代として入った太田資高が、岩淵と周辺の領主となったとみられる。
 その後、永禄2年(1559)の「小田原衆所領役帳」によれば、太田新六郎(康資)の多数ある知行の一つに「185貫文 岩淵五ヶ村」と見え、太田氏の領有が続いている。(参考 ※2)。
 また、「岩淵砦」という記述が各所にみえるが、岩淵には砦を築くような地形はなく、前述の稲付城のことと推測される。となると、江戸城代であった太田氏だが、自らの持ち城として稲付城に入ることもあったのかもしれない。
 1562年に太田康資が造反した後の岩淵がどう処遇されたのかは正確には不明であるが、太田輝資が領し、北条家滅亡に伴い徳川領となったか。
(→太田氏の動きは資料集「太田氏の動静」の太田江戸氏の項を参照されたい)
 徳川時代においては直轄領とみられる。

4 戦国後略史
・江戸時代
 岩淵(岩淵本宿)は江戸時代を通じて天領。赤羽や稲付などは後に本郷の伝通院領、上野(うえの)の東叡山領などにもなった。
 岩淵を中心とする江戸北方の諸村は、江戸のおひざ元とあってか「岩淵領」という集合体とされており、郡はおかれず、ほぼ天領(後には寺社領も多くなる)となっていた。荒川沿に東は田端、新堀(=日暮里)、南は中里、滝野川、西は王子、十条を経て赤羽まで。
 岩淵は、引き続き重要な交通の要衝であった。江戸から北に向かうため日光街道(奥州街道)が整備されるが、旧来の岩槻街道も脇街道「日光御成道」として整備された。起点は江戸の日本橋となり、中山道から本郷追分で分離して北上する。(詳細は当該項目にて)
 岩淵宿は街道の最初の宿場として、対岸の川口宿と月の前後半で交代して宿場業務を請け負った。岩淵は後半担当。将軍家の専用街道としての側面が強い御成道は、北への出入り口として繁栄した日光街道・千住ほどの賑わいは見られず、宿場町としては小さかった。一方、対岸の川口に存在する善光寺(寺院HP)は近場で「善光寺参り」が行えるとして人気となる。善光寺参拝客は渡し舟を利用したため町には飲食店が多く並び、特に善光寺開帳時は大きな賑わいを見せたという。
 江戸に近い水運の拠点としても健在であり、武蔵北方の農産物などが陸揚げされていた。
 また、低地湿地は開墾され水田となり、台地では野菜が育てられ、大量消費地の江戸へ出荷されていたと思われる。なお、天領・寺社領は年貢や施政も緩めで、農民も比較的裕福だった様子が伝わる。

新荒川大橋のたもと、マンション前に建つ「岩槻街道岩渕宿問屋場址之碑」(ママ)岩淵、岩渕の表記ゆれは昔から多く、行政でも悩みの種だった模様(2022/10/9)

・明治時代~大正時代
 維新直後は大宮県、浦和県を経て東京府となる。
 明治初期、台地上(現在の桐ヶ丘)に陸軍火薬庫が建造される。
 明治16年に日本鉄道の上野ー熊谷間が開業、明治18年には赤羽駅と、赤羽で分岐し東京の西を回り品川へ向かう品川線が開業した。(この時点で、東京の東西から北上する路線が交わる赤羽という要衝が完成している。)
 台地上に土地が残されており、東京から交通の便も良い赤羽には陸軍の施設が多く入る。陸軍火薬庫に始まり、被服工廠、工兵大隊、兵器庫など、帝都の近くに置きたいが広さが必要な軍需施設がここから板橋、十条にかけて多数築かれた。それらはお互いに専用線や索道で繋がれ巨大な軍需地区を形成していく。赤羽は「軍都」、「工兵の街」などと呼ばれるようになる。
 明治22年、東京市岩淵町に。
(→資料集「岩淵町町名存続第一次防衛戦」を参照)
 明治38年、川口へ渡る舟橋(船を繋いだ橋)が完成。長さ約120mで、船舶通航時は橋を構成する船を回転させ船を通した。昭和3年の時点で通行料は徒歩1銭、自転車3銭、荷馬車8銭など取られたが、一日平均30円30銭ほどの収入があった(参考 ※1)といい、数千人の利用者があったのではないか。
 明治43年、荒川が氾濫し、東京全体を襲う大洪水となり多くの被害者を出した。これが荒川直線化工事と、墨田川を締め切る岩淵水門建造の契機となり、昭和初期まで工事が続けられた。
 荒川の流路変更により、埼玉県側だった浮間が東京都側になったため、岩淵町に編入される。
 昭和4年には新荒川大橋が完成、かつては坂上田村麻呂の進軍を阻んだ川を越え、長く対岸として深い関係にあった川口とついに陸続きとなる。
・昭和期~戦後
 昭和7年、東京市拡大(大東京市)。岩淵町は王子区に編入される。
 戦後、王子区と滝野川区が合併、北区に。
 昭和37年には北区の住所改編で岩淵の町名が消滅しそうになった。
(→資料集「岩淵町町名存続第三次防衛戦」を参照)

5 産業
 古くから交通の要衝であり、岩槻街道と荒川水運が交わる岩淵は宿場として、また河港として古くから栄えていた。
 農業については低湿地と乾燥気味の台地であり、ともに中世以前には発展しずらい地形であった。灌漑技術が向上した江戸時代には低湿地での水田が広がった。また、近傍の似た立地である滝野川においては、野菜、特に根菜を栽培し特産品として江戸で消費されていた。赤羽の台地においても、同様に野菜の栽培が行われていたと考えられる。

6 城砦
・稲付城
 城メモ「稲付城」を参照されたい。

7 建造物
赤羽八幡神社(神社公式HP)
 岩淵五ヶ村の総鎮守。
 戦国前略史で解説のとおり、坂上田村麻呂東征時の勧進と伝わる古刹。
 その後、源頼光、源頼政らが再興。戦国時代には、太田資清・道灌の寄進を受けたほか、1552年太田康資が寄進した書状が神社に残されている。江戸時代には岩淵地区の各村の総鎮守であったとされ、岩淵五ヶ村が村の境を越えた繋がりを持っていた証拠であるともいえる。
 戦国時代においても健在であろう。明治期に多くの社地を軍用地・鉄道用地として削られた歴史があり、現在よりも雄大である可能性もある。
八雲神社(東京都北区観光ページ)
 創建時代は不明であるが、江戸時代には岩淵宿の鎮守として既にかなりの崇敬を受けている。また、川の渡場は現在の八雲神社前にあったそうだ。(参考 ※1)祭神・素戔嗚尊の関連で氏子はきゅうりを食べないとのことだが、この風習がいつから始まったのかは謎である。また、現在境内には岩淵町の町名を存続させることに成功したことを記念する碑が立っている。
(→資料集「岩淵町町名存続」)
・諏訪神社
(赤羽八幡HP内に説明あり)
 袋諏訪神社。応永3年(1396)、真頂院第一世秀善和尚が創建。袋村の鎮守とされていた。
・真頂院
 真言宗智山派。袋村に所在した。正確な建造時期は不明だが、前述諏訪神社を創建した秀善和尚が第一世なので、大きくは変わらない時期と考えられる。
西蓮寺(寺院HP)
 真言宗智山派。下(志茂)村の中心的寺院。弘安年間(1278~88)に淳慶阿闍梨が開創。かつての寺は関東大震災で倒壊したが、寺内には鎌倉~室町時代の板碑が多数残されており、当時から深く信仰を受けたものと考えられる。
熊野神社(東京都北区観光ページ)
 前述の西蓮寺を開いた淳慶阿闍梨が、正和元年(1312)に勧進。下村の鎮守となった。西蓮寺ともども、戦国時代にも健在とみられる。
・西光寺(正光寺、公式HP)
 浄土宗。1602年に現在の場所に移築され名前も改められたが、それ以前には荒川のほとり(テニスコート付近?)に所在しており、荒廃していたという。
 戦国時代にも所在していると思われるが、荒廃しているか。

8 個人的メモ
 中世以前において、岩淵が重要な水運拠点であり、江戸幕府による整備以前から栄えていたというのを改めて再認識した次第です。江戸のお膝元、衛星都市としての歴史は、江戸城を築いた太田道灌の時代からというまさに筋金入りともいえる岩淵、赤羽。他にも鉄道により大発展した東京の街は数ありますが、ちょっと歴史的に一味違う感じがします。


参考文献
(※1)「北区郷土誌」169頁 (北区史を考える会、平成5)
(※2)「小田原衆所領役帳」90頁 (校訂・杉山博、近藤出版社、昭和44)
(※3)「川口市史縮小版」28頁 (川口市、平成8)

外部リンク
赤羽八幡神社ホームページ
正光寺ホームページ

内部リンク
・城メモ「稲付城
・資料集「岩淵町名存続
・資料集「太田氏の動静
・資料集「小田原衆所領役帳
・資料集「本郷追分

改訂記録
R5.7.17 「鎌倉街道中道」の経路が間違っていたため訂正