くま城戦軍研 ―熊代城砦戦国軍事研究所

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資料室

稲付城

寺門下に建つ城址碑。高低差ある城の姿がわかる(2022/9/25撮影)

いねつけじょう。
概要
 赤羽駅の喧騒のすぐ近く、静勝寺が主郭の城跡。戦国時代に太田道灌が築いたとされ、荒川(かつての入間川)沿いの河岸段丘の先端部を活用した城。鎌倉街道が通り、太田氏の拠点・岩付(岩槻)と江戸を結ぶ線上であるとともに、水陸交通の要衝であった岩淵を望む城でもある。また、江戸城を居城とした扇谷上杉にとって、北の防御拠点となった時期もあるだろう。
関連項目:戦国地域情勢「赤羽・岩淵
     資料集「太田氏の動静
(登城日:2022/9/25 以降に状況は変わる可能性があります。)

Ⅰ 所在地等
  東京都北区赤羽西 静勝寺境内
 (都指定有形文化財(旧跡))
Ⅱ 種別・利用法 
  平山城、防御施設として利用
Ⅲ 築城時期
  江戸城築城(長禄元年(1457))以降か
Ⅳ 築城者
  太田道灌
Ⅴ 主要な事象
  合戦の記録はないが、長享の乱などで最前線となったか。
Ⅶ 公共交通機関アクセス
  JR赤羽駅からすぐ近くの静勝寺が城跡。
  下の図では、城跡の地形が分かりやすいように高低差で色を付けた。

1 来歴
 扇谷上杉家家宰、太田道灌が江戸城を築いた後、もう一つの拠点であった岩付城との途上にあたる地に築いたとされる。
 城の東側には鎌倉街道(江戸時代の「日光御成道」と重なる)が通り、渡河地点となる岩淵は栄え、室町時代には関所が置かれていた。交通の要衝の監視も兼ねていたのではないか。
 太田道灌が主君の扇谷上杉定正に討たれた後は、江戸城の付城として利用された可能性がある。特に、扇谷上杉と山内上杉の争いに際しては最前線に位置していたとみられる。
 北条家の進出後は、この付近を治めたのは江戸太田氏であり、その支配下にあったか。「小田原衆所領役帳」によれば、太田新六郎の知行に「185貫文 岩淵五村」と見える(参考 ※1)。荒川両岸が同勢力により治められるようになるとその重要性は薄れていったと思われる。
 江戸時代に道灌の子孫太田資宗(資料集「太田氏の動静」参照)は城跡に静勝寺を興した。以後、寺域として現代に至る。

2 構造
 江戸時代に描かれた「静勝寺除地検地絵図」により江戸時代の様子がわかっており、上地図に示すように、台地突端の舌状部を主郭としていた。
 南部を除く三方向は崖であり、南の台地に続く付け根部はマンション建設時の発掘調査で深さ5m余、幅10m余の空堀が検出されている(参考 ※2)
3 状況
 赤羽駅の目の前という好立地から周囲は完全に住宅地となっているが、城主郭そのものだったと思われる静勝寺は静けさを保っており、静かに探索できる。特に低地部との高低差は健在であり、城の在りし日の姿が偲ばれる。

静勝寺から城址碑方向を見下ろす(22/9/25)

4 その他
・岩淵砦
 「岩淵砦」と呼ばれる拠点が戦国時代に存在し、太田康資らが利用していた。しかし岩淵には砦となるような場所は無く、この稲付城=岩淵砦と見做してよいだろう。江戸城代として北条家に仕えた太田康資だが、自らの居城としていたのはこちらであった可能性もある。
・亀ヶ池
 前述の「除地図」に描かれている、城西方の大きな溜池「亀ヶ池」は、明治時代に大幅縮小され、現在は小さな痕跡が残っているのみ。かつてこの辺りの低地全てが湿地帯であった名残という説もあり、そうであれば戦国時代にも存在していたと考えられるが証拠はない。江戸時代に溜池として造られた可能性もある。

解説板
稲付城解説板。二つあるうちの新しい方を書き起こす。(2022/9/25)

 稲付城跡

 稲付城跡は、武蔵野大地北東端部の標高二一m程度の舌状大地先端上に立地する自然地形を利用した中世の城館跡です。文化・文政期の地誌「新武蔵風土記稿」にも「城蹟」として登場します。
 現在静勝寺が所在する平坦面に主郭があったと考えられています。北面と東西面は崖面で、南側は台地が続き平坦な地形になっています。周辺からは、発掘調査によって幅約一二m、深さ約六mの空堀の跡などが検出され、その際に一六世紀前半頃の遺物が出土しました。
 静勝寺には室町時代の武将、太田道灌の木造座像が所蔵されています。寺伝によれば、城はこの道灌による築造とされています。今のところ築城した人物を特定する明確な根拠はありませんが、荒川を前面にひかえ北方の防御を重視した城の構造と、発掘調査の成果などから、南側に勢力をもった扇谷上杉氏にかかわりのある城館であったと推測されます。道灌が扇谷上杉氏の家宰であったことから、道灌築城の可能性も考えられます。
平成二五年三月 建設    東京都教育委員会

もう一つの解説板。城の反対側にあります。駅からくるとこちらに着くはず。(22/9/25)
木造太田道灌座像

 静勝城には「道灌堂」という小さな堂があり、この中にある逗子内には木造の太田道灌座像(北区指定有形文化財)が安置されている。解説板によれば、道灌の命日である七月二六日にちなんで、毎月二六日に開扉されるとのこと。

静勝寺内、道灌堂。左脇に解説(22/9/25)
木造解説板(22/9/25)

個人的回想
 大都会である赤羽駅からわずか数百mに存在する城跡だが、立地条件が嘘のような静けさが感じられる。
 地形も城跡としてわかりやすい。
 ここを見て、その地形だけをみて楽しめるような方は城にはまる素質がとても高い方だと考えられます。赤羽駅のすぐ近くという立地条件からも、小城郭の入門としてお薦めな城です。


参考文献
(※1)「小田原衆所領役帳」90頁 (校訂・杉山博、近藤出版社、昭和44)
(※2)「北区史 通史編 中世」190頁 (平成8、北区史編纂調査会)
(なお、参考資料には「ライオンズマンション赤羽第二の建設」とあるが、位置関係から、現在の「ライオンズマンション赤羽西第二」の方であると思料)

外部リンク
・北区飛鳥山博物館HP「稲付城跡

内部リンク
・戦国地域情勢「赤羽・岩淵
・資料集「太田氏の動静