概要
東京北西部に勢力を誇った豊島氏が、石神井城に移るまでの本拠地。上中里は有史以前から発展していたとみられる地で、律令時代には豊島郡衙が置かれるなど、古くから地域の中心であった。
本城は上中里駅前の高台に所在。同じく大都会、赤羽に位置する稲付城(城メモ)とは違い、早々に歴史から退場し、江戸時代には既に「高名だが所在地不明」の城となっていた。
源義家の鎧を埋めたという伝説が残る甲冑塚古墳が所在する。
(登城日:2022/10/9 今後も大きく状況が変わることはないでしょう。)
Ⅰ 所在地等
東京都北区上中里
Ⅱ 種別・利用法
平山城、居城
Ⅲ 築城時期
平安時代末期
Ⅳ 築城者
豊島太郎近義(秩父平氏)
Ⅴ 主要な事象
源義家が後三年の役後に逗留、その鎧が埋められているという。
文明10年(1478)、豊島泰経が拠るが太田道灌により攻略される。
Ⅵ 遺構
地表面にはなし。発掘調査の結果として堀跡や切岸など。
Ⅶ 公共交通機関アクセス
JR上中里駅近く、平塚神社・城官寺とその周辺。
1 来歴
近隣には中里貝塚(資料集)が所在、有史以前から栄えていた。
奈良時代~平安時代には豊島郡衙がおかれ、東京北部の広範囲に及ぶ豊島郡の中心であった。
地域の詳細は地域情勢「上中里」にて。
平安時代、武蔵に大勢力を誇っていた秩父氏の秩父武常、またはその二代跡の秩父康家は豊島(現・東京都北区豊島)に拠り豊島氏を名乗った。
その子孫、豊島近義が平安末期に豊島郡衙の跡地に築き、居城としたのが平塚城である。後三年の役(1083-87)の帰路、源義家ら三兄弟はこの城に逗留した。近義に感謝した義家は使っていた鎧と守り本尊の十一面観音を近義に下賜したという。義家の死(1106)の後、近義は鎧と十一面観音を埋めて塚を築いたとされ、その塚が平たかったことから「平塚」の地名が付いたという説もあり、現在の鎧塚=甲冑塚古墳であるともされる。(実際は同古墳は出土品から古代の古墳とみられ、少なくとも近義が一から築いたものではなさそうである)
室町時代の中期には、豊島氏は居城を西の石神井城に遷した。
文明8年(1476)、豊島泰経・泰明兄弟は長尾景春の乱に乗じ関東管領上杉家と戦うが、上杉家の家宰・太田道灌の攻撃を受ける。その後、太田道灌により豊島氏が滅ぼされていく中、平塚城も滅した…というのが定説だが、現在ではその前から既に機能を失っていたという説もある。詳しくは畳みます。
平塚城での戦い?
名将・太田道灌は地域の旧家である豊島氏(当時の君主は泰経)を滅ぼし、上杉家の地位を盤石にしたことで知られる。
かつては、道灌が豊島氏と戦うにあたり、最初に攻めたのはこの平塚城というのが通説であった。「日本城郭大系」(参考※1)でも『鎌倉大草子』をもとに「道灌江戸より打て出、豊島平右衛門尉が平塚の城を取り巻き…」と紹介している。
しかし、攻撃していたのが平塚城だとすると地理的に辻褄があわないため、現在では最初の攻略対象は「練馬城」であると考えられている。
また、豊島泰経が最後に拠った城も平塚城であり、平塚城が落ちた後に豊島泰経は丸子城から小机城に落ちた、とされていたが、それも地理的条件などから否定されている。(詳細は城メモ「石神井城」にて)
平塚城は豊島氏VS太田道灌の戦いでその存在感を示していない、というのが最近の考え。
本拠地を石神井に移転した際に、主要な城としての機能を失っていた可能性も考えられる。平塚城から近い豊島氏ゆかりの寺院「清光寺(豊島清光館)」が室町時代~戦国時代初期には荒廃していたこともその証左といえよう。
以後、平塚城は歴史上から消えており、戦国時代には城郭としての機能を失っていたのだろう。
江戸時代にはその所在場所すら不明になっており、「新編武蔵風土記稿」では平塚神社か城官寺周辺と推定されつつも「歴史に知られるあの城だが正確な所在は不明」扱いになっている。
近年になって堀跡などの遺構が見つかっており、平塚神社の周辺が城跡であるという説が補強されつつある。
平塚神社は江戸時代の寛永17年(1640)、平塚出身の盲者で鍼医であった山川城官貞久が家光に忠勤したことで中興する。
詳細は地域情勢「上中里」にて。
2 構造
平塚神社を中心とする台地上に築かれた城とみられる。
発掘調査では神社の周辺から堀跡や櫓跡などが発見されている。
3 状況
地表面上には遺構無し。
城跡とみられる平塚神社の奥には、先述の義家の鎧が埋められたという「甲冑塚古墳」が残っているが、普段は立ち入ることはできない。
解説板
平塚城伝承地
平塚神社
平塚神社付近は、平安時代に豊島郡を治める郡衙(ぐんが)のあった場所だと推定されていますが、平塚明神并(ならびに)別当城官寺縁起絵巻(北区指定有形文化財)の伝承によれば、この時代の末期には、秩父平氏庶流の豊島太郎近義という人物が平塚城という城館をつくります。
平塚城は源義家が後三年の役で欧州に遠征した帰路の逗留地で、義家は近義の心からの饗応に深く感謝し、使っていた鎧と守り本尊の十一面観音を下賜しました。近義は義家が没した後、城の鎮護のために拝領した鎧を城内に埋め、この上に平たい塚を築き、義家兄弟の三人の木像を作り、そこに社を建てて安置したと伝えられます。これが本殿裏側の甲冑塚とも鎧塚とも呼ばれる塚で、平塚の地名の起こりともいわれます。鎌倉・室町時代の平塚城は、この地域の領主であった豊島家代々の居城となりましたが、文明十年(一四七八)一月、泰経の時代に太田道灌によって落城してしまいます。
江戸時代、上中里村出身の針医で当道座検校でもあった山川城官貞久は、三代将軍家光の病の治癒を平塚明神に祈願し、家光は程なく快復します。感謝した貞久は、みずからの資金で平塚明神の社殿と別当の城官寺を再興し、買った田地を城官寺に寄進します。貞久の忠誠心を暫くして知った家光は感激し、二五〇石の知行地を与え、この内の五〇石を朱印地として平塚明神に寄進させました。
平成四年三月 北区教育委員会
周囲の状況
上中里駅前から平塚神社の脇を登る坂の名前は「蝉坂」。
一説には、軍勢が攻め登っていった「攻め坂」かから転じて蝉坂になったとか。
個人的回想
縄文時代の水産加工場中里貝塚から始まり、豊島郡衙跡など地域の中心地であり続けた上中里の地に、間違いなくあったはずの城です。そんな土地の力を引き継いでか、現在でいう東京北部に勢力を広げた豊島氏ですが、戦国時代最初期に道灌により滅ぼされるので戦国時代ファンからしても影が薄いですかね。特に平塚城は道灌との戦いのときにはすでに廃されている可能性も高く、更に影が薄い。
源義家の鎧が埋められているとすると、戦国時代においては秘宝発掘できるかもしれません。豊島氏が石神井に持ち去った、という記録もなさそう。滝野川城(城メモ)付近にあったという源頼朝の刀と並んで浪漫があります。
参考文献
※1 「日本城郭大系5」261-262頁(新人物往来社 昭和55年)
外部リンク
「文化財説明版平塚城伝承地」(北区飛鳥山博物館)
内部リンク
資料集「中里貝塚」
城メモ「清光寺(豊島清光館)」
城メモ「石神井城」
地域情勢「上中里」
改訂
R5.9.17 地域情勢「上中里」作成に伴い、江戸時代の事象を上中里に移動