くま城戦軍研 ―熊代城砦戦国軍事研究所

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資料室

中里貝塚

中里貝塚史跡広場の標柱。広大な中里貝塚の一部がこの下に埋まっている。(2023/4月)

1 概要
 東京都の上中里に存在する史跡。
 膨大な量の貝殻が蓄積された巨大な貝塚。村落に築かれた貝塚とは違い、生活に伴うゴミなどはほとんど出土していないのが特徴で、組織的に運営され牡蠣・蛤を収穫し交易用に加工していた、縄文時代の「水産加工場」跡であると考えられている。
 現在は保全のために埋められており、発掘成果は飛鳥山の博物館などで見ることができる。
 縄文時代の東京の様相を窺い知ることができる、そしてその生活は(おそらく多くの日本人が思っているより)発展していたものであることを示す貴重な遺構である。

2 中里貝塚の機能
 中里貝塚は、現在のJR上中里駅周辺、縄文時代の海岸線沿いに所在していた。過去の文献などから推定すると南北1kmほど、幅70~100mの広さに、カキとハマグリの貝殻が暑さ最大4.5mほどに積み上げられていたとみられる、他に類をみない巨大な貝塚である。
 村落に築かれた貝塚とはまるで様相の違うこの貝塚は、海岸に築かれ、組織的に運営された「水産加工場」の痕跡であると考えられている。

現地(地図①)解説板より。オレンジに見える赤線が約4500-4000年前の海岸線。現在の上中里辺りは海岸線と台地の接線であり、水産加工場の立地条件として恵まれていたのだろう。(2023/4月)

 特徴的なのは、普通の貝塚(=村落のゴミ捨て場とみられる)で発掘される土器破片や魚・獣の骨などは見つからず、ほぼカキ(マガキ)とハマグリの貝殻だけが巨大な堆積物として残されていることである。貝殻の特徴と、そこから想定できる採取方法については長くなるので畳みます。

牡蠣と蛤の貝殻から見える縄文人の採取法

 中里貝塚には壮大な量のマガキとハマグリの貝殻が積み上げられているが、その特徴から中里貝塚を利用した人たちがこれらをどのように採取していたのかがわかる。
(参考:北区飛鳥山博物館HP「国史跡中里貝塚詳細解説3
 ハマグリの特徴としては、35mm以下の小型のものはほとんど見つからないとのことである。ハマグリに関しては海で個別に採取し、小型の貝は採取せずにその成長を待つという知識を備えていたことがわかる。
 一方、マガキは幼貝やカキ礁に住む他の小さな貝も含まれることから、干潟に形成されていたカキ礁を収穫して加工していたと考えられるとのことである。

 カキ礁とはマガキが積みあがった礁。泥干潟などの浅海底において、カキの上にカキの幼生が取り付きが成育することでタワーのように形成される。カキ礁が発展することにより、干潟には本来住めないような生物たちも住み着くようになる。食料面から大きいのは、小型魚の産卵場所、退避場所となることであろう。それを追う大型魚も現れる。
 ハマグリの例を見る限り、資産の再生産には気を使っていたであろう縄文人。すぐに採集できるお手軽な資源ながら、環境資源として絶大な力を持つカキ礁とうまく付き合えていたのかどうかは気になるところである。

 また木枠で囲まれた粘土のくぼみが見つかり、焼き石などが見つかっていることから、焼き石を利用し大量の貝を煮て、中身を取り出していたと考えられる。

現地(地図②)の解説板。薄くて見ずらいが、右側に焼いた石で貝を煮るやり方が記されている(2023/4月)

 貝の身は、もちろん自分たちの食用にもしていたはずだが、中里貝塚の膨大すぎる貝殻の量は周辺の集落の食用のみの結果とは考えづらい。おそらくは干し貝などにして、交易に用いられていたのではないかと考えられている。
 例えば長野県和田峠産の黒曜石は東京周辺の遺跡でも多数見つかっており、こういった資源との交換に用いられていたのだろう。

 発掘調査の結果、貝を煮ていたとみられる施設跡に向かう木道の他、当時は海であったとみられる場所で木杭が見つかっている。
 意図的に牡蠣の幼生の付着を期待して設置されたものであるならば、世界最古の養殖施設とすら考えられる。もしそうであれば、世界史上最古の水産物養殖と考えられていた古代ローマの牡蠣養殖よりも大きく遡る、世界最古の水産物養殖施設であるという可能性もある。

・中里遺跡
 貝塚の南側、現在鉄道用地となっている場所からも遺物が発見されており、こちらは「中里遺跡」と呼ばれる。
 こちらは多数の土器や丸太船などが見つかっており、集落跡と考えられる。おそらくこれらの住人が、季節になると海に降り、貝を加工し、その貝殻を海に捨てていったのが中里貝塚なのだろう。

4 中里貝塚の現状
 中里貝塚は、保全のため、その全域が埋められている。
 そのため、地表上には解説板が建つのみでただの広場となっている。
 場所と周辺地域の状況を国土地理院地図を利用して示す。

国土地理院地図を利用して作成。

 上中里二丁目のJRに挟まれた場所に解説板。
 ①の広場とその向かいの②、そして広い公園となっている中里貝塚史跡公園の三か所に解説板、史跡標柱などがある。
 貝塚そのものは地面の下に埋め戻され確認できないが、切り取られた標本は飛鳥山博物館などで展示されている。

5 縄文以降の中里貝塚
 縄文時代は奥東京湾という海に面していたこの地だが、徐々に海は後退していき、内陸部へと変わっていく。
 奈良時代には豊島郡衙が置かれ、平安時代にはその後に地域の覇者となっていく豊島氏が居城平塚城を置くなど、上中里は古代~中世において地域の中心的存在となっていく。そこには、縄文時代には既に多くの人が住み、大規模な共同作業すら実施していたほどの社会性と経済力を保持していたことが無関係ではないのではないか。
 貝塚自体は以後、その役割を終え、歴史と土の下に埋もれていく。
 江戸時代には牡蠣殻が大量に出土する「かきがら塚」として知られていた。
 本格的な調査が実施されるのは昭和、平成になってからのこととなる。

6 戦国利用メモ/個人的感想
 土地改良の石灰に利用するなど、大量の牡蠣殻、蛤殻が必要になった時には利用価値があるかもしれない。
 中里貝塚は、縄文時代に築かれた水産加工場です。
 この施設が示す縄文当時の人々の生活と社会は、おそらくは多くの方が連想する「縄文時代」とは一線を画すものではないでしょうか。
 ローマや中東、中国のようなきらびやかな文明や巨大な遺構を築くことはなかった縄文人。しかし、そのような「権力」が生じる前に、共同作業の結果としてこのような遺構を築いていたのだとすると、縄文社会の文化度は、巨大な権威が巨大な建造物を築いていた諸文明に劣るものとは言い切れないのではないかな、とも考える次第です。


外部リンク
・「国史跡中里貝塚|東京都北区飛鳥山博物館
  ー中里貝塚の標本が見られる飛鳥山博物館のHP。

内部リンク
 城メモ「平塚城