くま城戦軍研 ―熊代城砦戦国軍事研究所

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資料室

上中里

中世:武蔵国豊島郡荒墓郷(後に平塚郷)
江戸時代:武蔵国岩淵領
明治時代:東京府北豊島郡上中里村→北豊島郡滝野川町
昭和:東京市滝野川区→東京都北区

城官寺山門。多岐氏一族の墓がある。医家として高名な多紀氏、漫画「仁 ーJIN」でその名を覚えている方も多いのでは。(2022/10/9)

1 概要
 本項では、東京都北区上中里(現在の上中里1丁目~3丁目及び昭和町の北部)について記述する。
 「中里貝塚」が示すように有史以前から多くの人が在住していた可能性があり、律令時代にはほぼ現在の東京特別区北西半分にあたる「豊島郡」の郡衙がおかれ、平安時代以降は豊島郡を治めた武士である豊島氏の本拠地、「平塚城」がおかれた。豊島氏が拠点を「石神井城」に移すまでの長い間、東京北西部の政治的中心であった土地である。
 江戸時代以降は都市近郊の農村として、平和に発展していったと思われる。

2 戦国前略史
・縄文時代
 奥東京湾の海に面したこの地には、組織的な水産加工場である「中里貝塚」(資料集)が築かれ、それを運用する人々が住んでいた。当時としては多くの人口と経済力を持っていたと考えられる。貝塚の詳細はリンク先で。
・奈良時代
 奈良時代、現在の東京の北部を治める「豊島郡」(おおむね、現在の東京都千代田区、中央区、台東区、文京区、新宿区、渋谷区、豊島区、荒川区、北区、板橋区及び練馬区の大部分、墨田区の一部)が置かれた。古くから発展した地域でもあり、武蔵国では多摩郡(現在の東京都市部+中野区、杉並区のほぼ全域)に次ぐ大郡であった。
 その郡衙(政庁)は現在の西ヶ原~上中里に存在した「御殿山遺跡」であったと考えられており、現在の滝野川公園に解説碑がある。(また、北区飛鳥山博物館(公式HP)に関連する展示がある。)
 また、現在でいう北区南部は荒川区、台東区あたりと合わせて「豊島郡荒墓郷」と呼ばれていた。

御殿山遺跡の解説、および出土品のレプリカ。滝野川公園に所在(2023/4月)

・平安時代
 豊島郡衙時代に引き続き、豊島郡の中心となる。
 武蔵に大勢力を誇っていた秩父氏の秩父武常(またはその二代跡の秩父康家)は豊島に拠り、豊島氏を名乗る。その子孫、豊島近義は平安末期に豊島郡衙の跡地に、「平塚城」を築き居城とする。豊島氏は豊島郡を治め、各地に支族を入れ発展していく。地名の由来は源義家の鎧を豊島近義が塚を作り埋めたため、という説もある。詳細は城メモ「平塚城」にて。
 平安末期にはこの地域は「荒墓郷」から改め「平塚郷」と呼ばれるようになり、平塚城はその中心であったと考えられる。(範囲は現在の上中里のほか、中里、西ヶ原、滝野川、田端など)
・室町時代
 室町時代中期、豊島氏は本拠地を石神井川の上流、西の「石神井城」に移転する。当地の周辺には滝野川氏の滝野川城や板橋氏、飛鳥山氏などの支族を配しており、豊島氏の領国であったとみられるが、具体的な状況は不詳である。
 文明8年(1476)「長尾景春の乱」(wiki)において、豊島氏は長尾景春に与したために扇谷上杉家と対立、その家宰である太田道灌に滅ぼされる。その後、道灌を誅殺した扇谷上杉定正が江戸城に入った後、この付近も扇谷上杉領となったとみられる。

3 戦国時代
 大永4年(1524)、両上杉と戦うことを決意した北条氏綱は太田資高とともに江戸城を攻略。その際、江戸城代として入った太田資高が、この周辺も治めた模様。
 永禄2年(1559)の「小田原衆所領役帳」では太田新六郎(康資)の多数ある知行の一つに「卅(30)貫文 江戸 平塚本郷」と見え、太田氏が領有しているようだ。(参考 ※1)。
 なお、所領役帳では同じく太田新六郎の所領として「江戸平塚内 田端」の地名や平塚藤右衛門の所領として「廿(20)貫文 江戸 平塚内西原」などが見え、この周辺を広く示す地名として「平塚」があり、その中心が平塚本郷=上中里であったことが伺える。
 北条家滅亡後、徳川家康が関東に入ると徳川領となった。
 
4 戦国後略史
 ・江戸時代
 江戸時代初期においても「平塚」の呼び名は残っているものの、正保期(1644~48)には「宮外戸(みやがいと)村」と呼ばれた。中期以降(少なくとも元禄(1688~1704)以降は公的書類でも「上中里村」となっている。

 この地の大きな変化は江戸時代初期、将軍家光の時代。
 家光に侍する検校、つまり盲者で鍼医であった山川城官貞久は、家光が病となった際に治療を施すとともに、平塚神社に快癒を祈った。家光は快癒し、平塚神社に感謝した貞久は私財をもって平塚神社と別当の城官寺を復興した。
 寛永17年(1640)、平塚を訪れた家光はその様子を見て、造営の由来を村役人に尋ね、貞久の忠義を遅ればせながら知ることとなる。家光は貞久に250石の知行を与え、そのうち50石を平塚神社に寄進させたという。(現地解説板、城官寺HPより)
 その後は長く、旗本の山川氏・平塚神社領が続いた。

 江戸中期、江戸の町の範囲が拡大された際の上中里は中里などと同様、ちょっと微妙な位置づけに。最も広義の江戸である「御府内」には含まれ、寺社奉行の管轄地内となるものの、江戸の町の行政組織である「町奉行」の管轄範囲からは外れ、村という扱いとなる。

 中山道の街道筋として栄えた巣鴨や観光地として栄えた王子とは異なり、近郊の一農村であったとみられる。(同じく観光地となっていた飛鳥山繁栄の恩恵は受けられたかもしれない)その後も統治者など大きな変化なく、幕末を迎える。

・明治~昭和初期
 明治6年、第九大区三小区上中里村。同11年、北豊島郡上中里村に。
 明治22年、市町村制導入による市町村の大合併。上中里村は中里村、田端村、西ヶ原村とともに滝野川村に合併。
 大正12年、国鉄上野駅の改装に伴い、車両車庫のため「貝塚信号所」が設置。
 大正15年、上記施設、「貝塚操車場」に発展。以後、この設備は現代に至るまで尾久機関区、尾久車両センターとして都心の電車運行の重要施設となり、この地域の特徴的な存在となっている。
 昭和5年、町名変更により東北本線の北東側が「昭和町」として分離。
 昭和7年、「大東京市」成立。滝野川町は王子村等の王子区との合併を拒否、都心方面との合併を果せず、滝野川区となる。一つの町で区となったのは荏原と滝野川のみ。滝野川区は東京市20区で最小の区となった。上中里は「東京市滝野川区上中里町」になる。
 昭和8年、国鉄「上中里駅」(wiki)開業

・現代
 昭和22年、東京特別区の成立に際し、合併論が浮上。豊島区や文京区との合併を望むが果たせず、王子区と合併し北区となる。東京都北区上中里に。(かつては豊島郡の中心であったのに、豊島区に入れてもらえない…)
 昭和33年頃から「中里貝塚」の発掘が進む。詳細は該当項目にて。
 昭和40~41年、上中里町は「上中里1丁目~3丁目」になる。

5 産業
 特産物などは特筆されるものはないが、やはり隣接した滝野川同様、根菜をはじめとする野菜の産地であったとみられる。
 また、江戸時代には「中里貝塚」は牡蠣貝殻の塊として認識されていた。土壌改良のためなど、大量の牡蠣殻が必要な場合には重宝するだろう。

6 建造物
 「中里貝塚」については当該項目にて。
・平塚城
 豊島氏が拠点を石神井城に移して後は、城としての機能は無いとみられる。江戸時代にはすでに「所在不明」とされており、戦国時代にも明確な痕跡は無かった可能性もある。
 一方、源義家の鎧を埋めたとの伝説もある「甲冑塚古墳」は残っていると思われる。詳細は城メモ「平塚城」にて。

7 個人的感想
 東京都北西半分を占めていた豊島郡、その政治的中心として長くあったのはこの上中里。
 現在では、巨大な鉄道の車両センターのイメージもあってか、「地味」という印象が強い上中里ですが、律令時代(もしかすると有史以前)から、豊島氏移転までの間、地域の中心であったことはまぎれもない事実でしょう。
 平塚城周辺の地形を見れば、戦国時代においても要害としての存在価値もありそうです。


参考文献
※1 「北区の歴史」(東京都) 92頁(芦田正次郎ほか、名著出版、昭和54)
※2 「小田原衆所領役帳」91頁(校訂・杉山博、近藤出版社、昭和44)
※3 「小田原衆所領役帳」91頁(校訂・杉山博、近藤出版社、昭和44)

外部リンク
 「北区飛鳥山博物館」(博物館公式HP。中里貝塚、豊島郡衙に関する展示あり。HPに解説も)
 「城官寺」(寺の公式HP。山川貞久による復興などの記載もあり)

内部リンク
・資料集「中里貝塚
・城メモ「平塚城