くま城戦軍研 ―熊代城砦戦国軍事研究所

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資料室

巣鴨・西巣鴨

中世:武蔵国豊島郡
江戸時代:巣鴨村(後に一部は江戸町内と同じ扱い)
明治時代:東京市北豊島郡巣鴨町・巣鴨村等(巣鴨町の一部は小石川区へ)
昭和以降:東京都豊島区巣鴨町、巣鴨村(現在の巣鴨、西巣鴨)
大塚駅開業後:巣鴨村の一部が北大塚、南大塚に

 本項では、現代の東京都豊島区巣鴨周辺(西巣鴨、北大塚、南大塚等)を中心に記述する。

現代の巣鴨の代名詞「とげぬき地蔵」高岩寺(2023/5/4)

1 概要
 巣鴨はその名前の由来からして「大きな池があり、そこに鴨が巣を作っていたから」という説も残るほどであり、川沿いの一部を除いてあまり発展してはいなかった。
 戦国時代には集落が存在していたとみられ、北条氏の勢力下にあった。
 江戸時代に中山道が成立すると巣鴨も発展。その後は中山道と王子道が交わる休息場として、また園芸の市としても観光客が集まり栄えた。江戸北方に置かれた将軍家の鷹狩場の休養地としても整備されている。
 なお、今や巣鴨の代名詞ともなっている「とげぬき地蔵(高台寺)」が巣鴨に移転したのは明治24年と意外と近年である。

巣鴨周辺地図。国土地理院地図を利用して作成。青みが増すと低地。

2 戦国前略史
・縄文~弥生時代
 縄文海進により、関東地方の低地は広く海底であった。
 中里は海に面し中里貝塚が残るなど多くの住民がいたとみられ、駒込には海沿いに集落の遺跡などが残っている。
 谷端川沿いの台地上である巣鴨は、人が多くは住んでいなかった。しかし縄文時代の落とし穴や石器が見つかっており、川沿いなどに住む人々の狩猟場だったのではないかと推測される。(参考:「巣鴨遺跡」としま遺跡調査会HP)
 谷端川(やばた、wiki)はこの地域の歴史上、重要なので畳んで解説する。

谷端川流路

 谷端川は現代では暗渠となり地表上消滅している。
 源泉は豊島区要町の「粟島神社」の弁天池の湧水である。
 そこから南下、現・椎名町駅を交わすように北上し現・要町駅の東を通って現・下板橋駅近くまで北上する。この間の流域は現在でも公園となっており、橋跡が史跡として点在している。
 その後は南東進、現・大塚駅の北を通り、千石、小石川、現・東京ドーム付近を抜けて神田川に注いだ。この間の流路も現在では完全に暗渠となっているが、地形に標高差があるので流路は何となく分かる。(上記の高低差を示した地図を参照)
 武蔵野台地では貴重な水源であり、時期や規模は不明だが流域には人が住んでいたとみられる。
 もとが湧水なので水量の少ない河川だったが、江戸時代に千川上水の水を流し込むようになってから水量が激増。流域の農業を発展させたが、同時に溢水も多く発生。対策として1924年には石神井川への放流路が作られたが足りず、1934年に大規模工事が実施され下流部が暗渠となる。上流部も1964年までには暗渠となり、現代に至る。

・古代
 駒込の妙義神社には、日本武尊が東征に際して陣したという伝説が残っている。縄文時代には現在の東京の低地部分は海の底だった状況であり、ここから東に進むのは困難であったのだろう。時代が下った坂上田村麻呂も、東征の際に赤羽で足止めされたという伝説がある。
・奈良時代~鎌倉時代
 奈良時代には豊島郡に含まれる。
 平安時代に平塚城(現・上中里駅近く)に拠点を構えた豊島氏の勢力圏下に入ったとみられる。豊島氏は紆余曲折がありつつも、戦国時代に太田道灌に敗れるまで、東京特別区の北部~西部を中心に広くこの地を治めていた。
 鎌倉時代後期の元亨年間(1321-24)には、豊島景村が周辺の鎮守として神明社(現・天祖神社(神社HP))を興したという伝も残る。
・~室町時代
 中世の巣鴨は谷端川流域に人が住んでいたとみられるが、大部分はただ草が生い茂る原野であった可能性が高い。当時は水の便が無い武蔵野台地上を開墾するのは利益が薄く、広い台地の多くが同様の状態であった。
 人が住みだした詳細は不明であるが、戦国時代前には住人があるとみられる。「巣鴨庚申塚」(商店街HP)には、文亀2年(1502)に初代庚申塔が築かれたという記録があり(明暦の大火で焼損し、現在の庚申塚の下に埋められたという)、周辺に既に祭祀を執り行う程の住民がいた証左となっている。

3 戦国時代
 当地の細かな状況は不明であるが、周辺と同様、太田道灌に豊島氏が敗れると扇谷上杉氏領となり、北条氏綱が江戸城を奪取して以降は後北条氏領になったとみていいだろう。
 戦国時代に関東を治めた後北条家が家臣とその領土を記した永禄2年(1559)の「小田原衆所領役帳」によれば、江戸衆の「恒岡弾正忠」が、高田村の他、江戸の下平川・牛込・北見(喜多見)・板橋・小日向などの一部と共に「菅面之内中丸」1貫500文を知行としており、菅面=すがも=巣鴨と考えられている。(参考※1)中丸がどこか不詳であり、他に菅面は出てこないため巣鴨全体の規模は不明であるが、他の地域に比べると収入は少なそうである。
 恒岡氏は江戸太田氏の庶流かつ重臣。巣鴨もこの時期は周辺と同様、江戸城代の一人として東京北部~西部を広く治めていた太田新六郎康資の勢力圏と考えられる。康資が北条に造反した後の処遇は不明であるが、北条家領(太田輝資領?)となり、徳川家康が関東に入るとそのまま徳川領となったのだろう。

 また、子安天満宮(菅原神社)の縁起によると、天文年間(1532-55)に仁平(にだいら)三河守盛義が三河(一説に京都)から来て谷端川流域に「陣屋と称する家屋敷を構え、巣鴨村立始の住人となりて開墾」したという。その際、東西南北の高地に神社を築いた。北は氷川神社、南は熊野神社(現在は天祖神社の摂社)、西は稲荷神社、そして東が菅原神社という。十字を描くと中心はおおむね、現在の大塚駅周辺。保坂家の伝には「元亀年中から巣鴨に住居する、村草創の百姓」とあるという(参考※2)。それ以前には人はいなかったのか、あるいは農地として開墾したのは仁平三河守が最初ということか。
 仁平三河守盛義は元亀2年(1571)に亡くなり、その子孫は武士を辞め保坂氏を名乗る。保坂氏は江戸時代には代々巣鴨で名主を務めた。

4 戦国後略史
・江戸時代
 天領、増上寺領など。江戸時代を通じて街道沿いの街、園芸の街として栄える。
 幕府は中山道を整備。最初の一里塚本郷追分で日光御成道を分離、最初の宿場は板橋となり、巣鴨は途上の立場(休憩所)として栄えていく。また、王子稲荷などの寺社と桜の名所・飛鳥山などを擁する大観光地・王子へ向かう道の分岐点でもあり、雑司ヶ谷の鬼子母神への参拝客なども通った。
 特に元和元年(1615)に再興され正徳4年(1714)に江戸六地蔵の一つが置かれた「真性寺」(商店街HP)から、王子道との分岐点であり明暦年間に再建された「庚申塚」(商店街HP)の間は繁栄した。現在「巣鴨地蔵通り商店街」(商店街HP)としてその繁栄の面影を残している。
 江戸幕府は江戸の発展に合わせて「江戸の町」を拡大させ、周辺の一部を江戸町奉行の管轄下においた。つまり、江戸の町内と同じ扱いとした。これに伴い巣鴨村のうち中山道沿いが「巣鴨町」となった。
 当地の周辺では駒込や染井を中心に園芸作物の栽培が盛んであった。(その中で染井村において「染井吉野(ソメイヨシノ)」が誕生している)そのため、巣鴨の街は「園芸の街」としても有名となった。季節感あふれる園芸作物を鉢植えにして並べて売る巣鴨の街は、その光景そのものが観光の対象となった。庚申塚周辺の茶屋もそれを意識し、季節の花をあしらうなどして参拝者や旅行者を呼び込んでいたという。
 また、江戸北方は将軍家の鷹狩場となり、巣鴨村には鷹狩の休息場としての役目も与えられた。こう書くと良いことに聞こえるが、住民には鷹狩りのためのえさとして「おけら」などの供出が求められ、かなりの負担だったという。

・明治大正
 明治以降、東京の急速な拡大により、街道沿い以外も発展していく。
 明治22年(1889)の市制・町村制導入で巣鴨は東部の「巣鴨町(=現・巣鴨)」と西部の「巣鴨村(=現・西巣鴨)」に分割される。
 明治24年、高岩寺(とげぬき地蔵)(wiki)、下谷から移転
 明治30年、明治維新の後に東京を追われた徳川慶喜(wiki)が居を構えるが、山手線工事が始まった影響で34年には文京区春日に転居。
 明治36年、日本鉄道「巣鴨駅」「大塚駅」(wiki)開業。豊島線として建設がはじまったが、結果として山手線の一環となる。
 大正7年、巣鴨村が「西巣鴨町」に。
・昭和以降
 昭和8年、現・西巣鴨駅近傍に大都映画巣鴨撮影所(wiki)が開所。昭和17年に大都映画が他社との合併により大映になった際に閉鎖。安い予算でアクションやコメディ映画を量産し、「安く、早く、楽しく」を徹底することで大手映画会社と対峙した大都映画の存在は、巣鴨のアイデンティティにも影響を与えている…かもしれない。
 大戦後、無線機器や無線パーツの機器店が巣鴨に集まり、無線関係者が集まる「無線の街」となった。その後、多くは「電気の街」秋葉原に移転するが、アマチュア無線協会本部は長く巣鴨に存在していた。
 昭和44年、住居表記により大塚駅周辺が「北大塚」「南大塚」に。

5 産業
 江戸時代から、周辺は「園芸の街」として栄えていた。
 また、明治時代の状況をみると、街道周辺以外は一面の大根畑であったような描写が残る。近傍の滝野川が野菜、特に根菜の栽培で有名であったことに鑑みれば、似たような地形である巣鴨の台地も根菜の栽培に向いているのだろう。

6 建造物
天祖神社(神明社、神社HP)
 旧巣鴨村総鎮守。
 戦国前略史で前述のとおり、社伝によれば元亨年間(1321-24)に豊島景村が周辺の鎮守として勧進したといわれている。戦国時代にも神明社など何かがあるかもしれないが、豊島氏が敗れてしばらくしたならば荒廃しているかも。
・子安天満宮 等 仁平氏創建四社
 戦国時代で前述のとおり、天文年間に入植した仁平氏は、子安天満宮(菅原神社)をはじめとする四社を勧進した。現在残っているのは子安天満宮のみであるが、仁平(保坂)氏が健在ならば他の三社も健在であろう。

子安天満宮鳥居。本殿横に由緒ありも、扉が開いていると全部読むのは難しい状態(2023/5/4)


子安稲荷神社(神社HP)
 現住所は上池袋だが、巣鴨村範囲内。天正年間には祀られていたという。
真性寺(wiki)
 元は聖武天皇の勅願により、行基が開基したとされている。元和元年(1615)に復興されるまでは、跡形もなかったと考えるべきだろう。名跡を利用することはできそう。

真性寺の江戸六地蔵。ここからとげぬき地蔵、庚申塚までは江戸時代にも観光地として繁栄した中山道沿いになります。(2023/5/4)

7 個人的メモ
 巣鴨は、戦国時代においては全く見向きもされない地であったにもかかわらず、江戸時代には急発展した地の一つです。
 逆に言うと、江戸を発展させようとすれば無視できない。江戸の北西の要衝たる王子、板橋に睨みを利かせるこの場所は、流石に江戸幕府が早くから目を付けたのが納得できる立地です。
 水が少ないとはいえ草原だったのは事実、適した作物を選んで開墾するのはけして難しくないでしょう。


参考文献
※1 「小田原衆所領役帳」96頁(校訂・杉山博、近藤出版社、昭和44)
※2 「豊島区の歴史」 45頁 (林英夫、名著出版、昭和52)

外部リンク
・「巣鴨地蔵通り商店街」(おばあちゃんの原宿、こと巣鴨通り商店街のHP)
・「天祖神社」巣鴨の総鎮守

内部リンク
・資料集「小田原衆所領役帳
・資料集「本郷追分