くま城戦軍研 ―熊代城砦戦国軍事研究所

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資料室

本郷追分

現在も本郷追分の交差点に建つ、江戸時代創業の老舗酒屋「高崎屋」。電話ボックスの横に解説板が見える。(2023/7/15)

1 概要
 江戸時代、五街道の一つとして重要な街道であった「中山道」と、五街道に付属する主要な脇街道の一つであった「日光御成道」の分岐点。
 現在の文京区本郷、地下鉄南北線・東大前駅の近傍、東京大学農正門の目前にあたる。
 周辺の町は近代的に生まれ変わっており、解説板がなければなんの変哲もない交差点にも見える。しかし二つの街道の道筋は大きく変わることなく通り続け、江戸時代創業の酒屋が現在も建っているなど、確かに江戸から脈々と続く歴史の息吹を感じられる交差点となっている。

国土地理院HPを利用して作成。

2 江戸時代以前
 律令政治期において、上方から現在の関東地方を経由して奥羽方面に至る道として、「東山道」が築かれた。初期は武蔵国は東山道とされたため、上野国府と下野国府からそれぞれ武蔵国府(現・府中市)へ向かう東山道武蔵路も築かれた。(後に武蔵国は東海道に移される)
 鎌倉幕府は鎌倉を中心に多くの街道を整備したが、特に知られるのが「上道(かみつみち)」「中道(なかつみち)」「下道(しもつみち)」と呼ばれる、鎌倉から北方に放射状に広がる三本の道である。
 「上道」はかつての東山道の流れを汲む道で、後の中山道の前身ともいえる。
 鎌倉から北上して関戸で多摩川を越え、武蔵国の中心・府中を抜け現在の埼玉県西部を縦断、上野国、碓氷峠を経由し信濃に向かう道であった。
 「中道」もかつての東山道の流れも汲みつつ、後の日光御成道の前身であり、奥州街道の前身ともいえる。
 鎌倉から北上して二子で多摩川を越え、渋谷や池袋付近を抜け岩淵で入間川(現・荒川)を渡河。その後は現在の埼玉県東部を縦断、下野国から白河関を越えて奥州に向かう道であった。(渡河地点として繁栄していた岩淵の詳細は当該項目にて)

 戦国時代、太田道灌は江戸城と岩付城を築き、その二つの重要拠点を結ぶ経路上、現在のJR赤羽駅付近に「稲付城」を築いている。太田氏は現在の東大付近に「本郷城」も築いたともいわれ、そうなると本郷の地も二つの拠点を結ぶ経路として重視していたとも考えられるが、本郷城はその実在含めて謎が多い城であり、詳細は不明である。

3 江戸時代
 江戸幕府は慶長6年(1601)から、かつての東山道を利用した「中山道」の整備を開始。街道起点を発って最初の一里塚がこの地に築かれた。
 日光御成道(旧岩槻街道)はそれ以前から利用されていた可能性が高いものの、江戸幕府が正式に脇街道「日光御成道」として整備するのは元和3年(1617)、徳川家康の遺骸がこの道を通って日光に運ばれた以降とも。
 正式にいつからは不明だが、上記2つの街道の分岐点であったことから「追分(分岐点を示す一般名詞)一里塚」と呼ばれた。またこの辺りは中世から「湯島郷」と呼ばれていたが、その地で一番栄えていたことから「湯島本郷」と呼ばれ、いつしか湯島と分離し「本郷」と呼ばれるようになったともいわれている。

解説板から。右下が日本橋方向からで、左折するのが中山道、直進するのが日光御成道であろう。右の道は湯島方面、昌平坂学問所などへ向かう道か。(2023/7/14)

 寛延4年・宝暦元年(1751)には酒屋の高崎屋(文京区HP)が創業。酒は掛け売りが当たり前の時代に「現金売り」を行い繁盛したといい、現代に至るまで続いている。
 根津神社・塞大神碑(後述)の解説板によると、榎が植えられていたが、明和3年(1776)に焼け、その後は庚申塔が置かれていたものの、これも文政7年(1824)の火災で欠損したという。
 江戸時代の川柳には「本郷もかねやすまでは江戸のうち」と詠われたという。
「かねやす」は現在の地下鉄丸ノ内線「本郷三丁目」に現在も続いている商店で、江戸時代には歯磨き粉を売り繁盛した。本郷あたりが江戸の町の北限として認識されていた証左ともいえる川柳である。江戸町奉行の行政範囲としては巣鴨や千住あたりまでは及んでおり、もっと北方まで「江戸」であったのは事実。だが「江戸城」の範囲である中心部に住む江戸っ子の認識としては本郷あたりが「江戸の町の北限」だったのかもしれない。(関連する逸話を後述)

解説板

 追分一里塚跡(区指定史跡)
 文京区向丘1-1

 一里塚は、江戸時代、日本橋を起点として、街道筋に1里(約4km)ごとに設けられた塚である。駄賃の目安、道程の目印、休息の場として、旅人に多くの便宜を与えてきた。
 ここは、日光御成道(旧岩槻街道)との分かれ道で、中山道の最初の一里塚があった。18世紀中ごろまで、榎が植えられていた。度々の災害と道路の拡張によって、昔の面影をとどめるものはない。分かれ道にあるので、追分一里塚とも呼ばれてきた。
 ここにある高崎屋は、江戸時代から続く酒店で、両替商も兼ね「現金安売り」で繁盛した。

 -郷土愛をはぐくむ文化財ー
 文京区教育委員会

高崎屋の前に建つ解説板(2023/7/14)

4 明治時代以降
 明治6年(1873)、本郷追分に「塞(さえ(い))の大神」の碑が建てられたという。道祖神であり、外界との境に建てられ邪の侵入を防ぐ神の碑がここに建てられたということは、やはり江戸の人々にとってはここが北の境だったのかもしれない。なお、この大神碑は明治43年、道路拡張のために根津神社境内に移されており、現在も根津神社内に現存している。

明治6年に本郷追分に祀られたという「塞の大神」碑。現在は根津神社内に安置されている(2023/7/14)
根津神社内、上記「塞(さえ(い))の大神」碑の解説板。なお、解説板に「礎石に移転の事情が刻まれている」とあるが、礎石の表面は剝がれ落ちており、読み取ることはできない(2023/7/14)

 湯島を中心とする地区は江戸時代から「昌平坂学問所」が置かれるなど文教の地であったが、明治時代には官立東京大学(後に帝国大学、東京大学)が築かれることになる。それにより周辺の様相は.大きく変わる。

5 現在
 しかし、本郷追分で分かれていた街道は、現在でも見てとることができる。
 直進して北上していた日光御成道は、現在の「都道455号線本郷赤羽線」。王子方面には行かず「都道460号線中十条赤羽線」に移り、当時の入間川(現・荒川)渡河地点である岩淵に向かっていく。
 また、当時から主要街道であったにも関わらず本郷追分で左に曲がる道であった中山道は、現在も日本橋を起点としてこの地で同じように左に曲がり、そのまま群馬県高崎まで向かう「国道17号線」として、ほぼ現存している。
 そして現在も、江戸時代から「現金安売り」で旅人に酒を売っていた「高崎屋」が店を構えていることも変わりない。
 一見すると現在の普通の交差点の一つでしかない「本郷追分」だが、その環境とそこから北に向かう二本の道を見れば、たとえ現在はアスファルトに舗装された道であるとしても、江戸時代、ひいてはそれ以前から「変わらないもの」に思いを馳せることもできる、そんな素敵な交差点である。


外務リンク
・「高崎屋」(文京区HP、ふるさと歴史館)

内部リンク
・城メモ「稲付城
・地域情勢「赤羽・岩淵
・地域情勢「巣鴨・西巣鴨