くま城戦軍研 ―熊代城砦戦国軍事研究所

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石神井城

保護のために立入禁止となっている主郭部。フェンスの外からでも土塁と空堀が伺える。(2023/7/17)

しゃくじいじょう
概要
 応永年間(1398~1428)、武蔵野台地有数の水源地に築かれた城。
 鎌倉幕府開闢の功臣、豊島郡(現在でいう東京特別区の北・西部)の盟主、豊島氏の居城として地域の中心であった。太田道灌の攻撃により落城し廃城となるが、城と同時に築かれた寺社はその後も地域の崇敬を集めている。
 市街地にありながら現在も水郷の観光地として住民が集まる石神井公園の一角であり、良く保全されている城址である。保全が万全すぎて入れる機会が少ないのが玉に瑕。
(登城日:2023/7/17 その後、状況は変わっている可能性があります)

Ⅰ 所在地等
  東京都練馬区石神井台 都立石神井公園内
 (都指定文化財・史跡)
Ⅱ 種別・利用法
  平山城(平城?)、居城
Ⅲ 築城時期
  応永年間(1394~1428)か
Ⅳ 築城者
  豊島氏
Ⅴ 主要な事象
  豊島氏が平塚城から居城を移転、地域の行政的中心となる。
  文明9年(1477)、長尾景春の乱に際して太田道灌の攻撃により落城
Ⅵ 遺構
  土塁、空堀
Ⅶ 公共交通機関アクセス
  西武池袋線「石神井公園」から1.5kmほど。バス停「三宝寺池」近く。

国土地理院HPの地図を利用して作成。

1 来歴
・築城まで
 豊島氏は秩父氏の庶流であり、鎌倉幕府草創時に多大な功績を挙げた。
 最初に石神井に入ったのは豊島氏一族の宇多氏で、弘安5年(1282)には宇多重広から娘の箱伊豆にその領地が伝わり、夫の宮城氏が相続、宮城氏の嫡流・宗朝が豊島宗家を継いだため、石神井も宮城領と併せて豊島宗家の領地となった。(参考:web版練馬区史歴史編
 石神井城の築城時期は詳細不明であるが、城と関係が深い氷川神社や三宝寺が揃って「応永年間」(1398~1428)の創建と伝わることから、この時期の築城か。豊島氏は当初平塚城を本拠としていたが、弘安元年(1368)武蔵平一揆(wiki)の乱で敗れたために一度その領地を失った。応永2年(1395)に領地を返還された後には石神井城を築き、拠点を移動したと思われる。
 その後、石神井城は豊島氏の居城として地域支配の中心となる。
 豊島氏は各地に支族を配し、現在でいう東京特別区北部~西部を統治(前述の宮城氏を始め、滝野川氏、板橋氏、志村氏、赤塚氏など。)また、主要な支城として練馬城を築き守りを固めた。また、応永23年(1416)、関東管領(犬懸上杉家禅宗氏憲)と関東公方(足利持氏)が激突した上杉禅宗の乱(wiki)において持氏の勝利に貢献し地域での地位を盤石とした。

・落城まで
 文明8年(1476)、山内上杉家とその家宰・長尾氏の内輪揉め「長尾景春の乱」(wiki)は長尾氏が古河公方と組み、両上杉家と対峙するにまで激化。関東の戦国時代の幕開けともいえる大乱となった。
 豊島泰経は長尾景春の姉妹を妻とする縁もあい景春につく。そして、その前に扇谷上杉家家宰にて稀代の名将、太田道灌が立ちふさがる。(そもそも豊島氏が景春についた主因は、石神井川に沿って東西に支配を広めた豊島氏にとって江戸城・稲付城・岩付城の南北のラインを確保する太田道灌が邪魔だったため、という説もある。)

 泰経は練馬城に入った弟の泰明とともに戦うが、「江古田の戦い」で道灌に敗れる。泰経は石神井城に退却し、道灌は愛宕山(石神井川の向かい、現在の早稲田大学高等学院付近)に布陣。一度は城の破却を条件に和議が結ばれるものの、泰経が破却を行わなかったためにしびれを切らした道灌が攻撃を開始、城は落城した。

 落城後の経緯については、解釈が変わっている。詳細は折りたたみます。

石神井城落城後の記録と、評価の見直し

 かつて、この地域のこの時期の歴史については、太田道灌が記し山内上杉家家臣の高瀬氏にあてた「太田道灌状」(wiki)、そして「鎌倉大草子」の記述が正しいとの認識の上で記されてきた。
 特に当事者の太田道灌が記したとされた「太田道灌状」は一次記録として重視されており、それに基づき「石神井城落城後、豊島泰経は小机城に敗走した」とされてきた。(参考※1)

 近年ではこれは疑問視されている。
 道灌状では「泰経を足立まで追いかけたが逃し」たとあり、鎌倉大草子では「泰経は丸子城を経て小机城に敗走」とされ、両方を正しいとするのがかつての見方であった。
 しかし、足立方面(石神井より東)に逃げた泰経が、太田道灌らの追撃網を突き抜けて南西の小机に現れるのはいかにもおかしい。彼が頼れるのは古河公方足利成氏であったろうし、泰経が北東に逃げたのは理解できる。となると、小机に敗走したという「鎌倉大草子」の記載が間違いである、というのが近ごろの解釈である。
 地理条件を考えれば納得だが、かつての日本史研究は「史書に書いてあるか否かがまず第一」という空気があり、一次資料と見做せる「太田道灌状」や「鎌倉大草子」の記述が絶対視されていたのだ。

・落城後
 落城後に城は廃されたが、貴重な水源を持つ石神井の地はその後も発展。城と共に築かれた氷川神社と三宝寺は地域の信仰の中心として栄える。
 氷川神社は、落城の後に現在位置に遷移。地元住人の崇敬を受け、石神井郷の総鎮守となる。江戸時代に豊島氏の子孫が奉納した石灯篭が残っている。
 三宝寺は朝廷の勅願所とされ、戦国時代を通じて北条家に保護された。江戸時代にも将軍・家光が休息所として使うなど発展。最盛期には6つの塔頭と50以上の末寺を持つ大寺院であった。
 明治7年の火災で多くの建物を失い、昭和期に多くの建物が復興される。現在も地域を代表する寺院として参詣者が絶えない。

2 構造

石神井城の現在の地形図。国土地理院地図を利用して作成。標高3mごとに色を変えてある。

 南を石神井川、北を三宝寺池に挟まれた台地上に築かれていた。上の地形図において池と川と二つの堀に挟まれた黄色~橙になっている台地上が城域となる。
 西の堀は、三宝寺池南西端から、台地を約270mほど切る形で設けられていた。現在では消滅しているが、「日本城郭大系」によれば、昭和28年までは北部の約60mほどが東側に並走する土塁とともに残っていたという。東側の堀も発掘調査で存在は認められているが、現在は消滅している。(参考※1)
 「主郭部」はこの城の中心部であったと考えられており、現在でも土塁と空堀が見てとれる。

 大規模な城ではないものの、水源と天然の堀を持つ要害の地であり、築城の時期を考えれば地形を生かした堅城と呼んで良い。城の守りを固める三宝寺池と石神井川は経済的にも重要な意味を持ち、地域の盟主、豊島氏の本拠にふさわしい城であったと言える。
 一方、豊島氏が滅亡後は廃城となりそれ以上の発展はみられず。北条家が築城・改修した関東平野の城砦群に比べれば小規模である。
 北条家も地域を軽視していたわけではなく、特に三宝寺の再興には力をいれ、豊島時代からの住民も統治していた。三宝寺池と石神井川の持つ経済的な価値は認めつつも、勢力圏からみて外敵に接しないことから、防御施設の石神井城は価値を認めなかったのではないか。

3 状況
 城域の多くの部分は住宅地として開発され、堀などが失われている。
 一方、一部は石神井公園の一角として保全されており、特に主郭部は通常立入禁止として遺構を保全している。今後も城の遺構は保持され続けるだろう。

主郭部フェンスの注意書き。イベントなどで入ることが出来る。(2023/7/17)

 周辺、特に北の堀となっていた三宝寺池周辺は現在も公園となっていることもあり、地形がよく残り解説碑なども豊富。総じて、規模は小さいものの、落城後も地域の信仰的中心としてあり続けたこともあり、見ごたえのある城跡と言える。

ひょうたん池の湖畔、城主郭部の北側に存在する城址碑。(2023/7/17)

4 伝記
・殿塚、姫塚
 石神井城の伝承として地元では有名なのが、石神井落城の際に三宝寺池に身を投げた豊田泰経とその娘、照姫(照日姫)を祭る「殿塚」「姫塚」である。
 泰経については、金細工の馬具を付けたまま沈み、角度によっては池の底の輝きが見られた、などと伝わる。照姫の伝説は不確かながらも現在でも人気があり、「照姫まつり」は現在でも練馬区を代表する祭りとなっている。
 泰経はその後も転戦を続けていた記載の方が信憑性が高く、照姫に該当する人物の存在は確認されていない。
 照姫についてはとある小説が原因で人気が出たらしい、と概ね特定されている。しかし、地域を代表する祭りとなった「照姫まつり」の存在もあり、実在は疑問視されながらも地域に愛され、面と向かってその実在を否定するのも無粋といえるアイコンとなっている。
 近代になってから「新たな生を受け愛されている」中世の人物といえるか。

殿塚。泰経は石神井で死んだ可能性は低い。(2023/7/17)
姫塚。大木のおかげでとても風格があります。石碑には「泰経二女照姫」とありますが、彼女が実在したかについては不明です。(2023/7/17)
解説板
「石神井城址」碑の脇に建つ解説板。

(一番新しい、石神井城址碑脇に建つ解説板)

石神井城跡

 石神井城は、中世武士の豊島氏の城です。豊島氏は、葛西、江戸両氏とともに、秩父平氏で、南北朝時代には、石神井郷を領有していました。
 室町時代に、城主の豊島勘解由左衛門尉(泰経)は、関東管領の上杉顕定にそむいた長尾景春に味方しました。そのために、顕定を援助していた上杉定正の重臣である江戸城主の太田道灌により攻められ、文明9年(1477)四月、落城したと伝えられています。
 石神井城は、三宝寺池と石神井川の低地に挟まれた舌状台地にあります。その周囲は空堀や土塁でめぐらされており、今でも土塁と空堀を見ることができます。
 のちに、落城によって照姫が水中に身を投げたという物語が作られ、語り継がれています。
※東京都の史跡に指定されています。

 令和三年(二〇二一)三月

(主郭跡のフェンス前にある解説板です。普通は入れない主郭部の遺構の説明が細かくて良いのでこちらも書き出します)
 石神井城主郭跡
 中世に活躍した武将、豊島氏の居城であった石神井城の中心部分です。三方寺池側は崖で、残る三方は堀と土塁が築かれていました。内部(内郭)は平坦で、有事の際に利用する建物などがあったと考えられている場所です。
 平成10年から6年間にわたって実施した市民参加の発掘調査では堀と土塁及び内部の一部が明らかになりました。壕は調査地点で幅約12m、深さ約6mで、断面U型に関東ローム層(赤土)を掘り下げ、底面を約3m幅で平らにした「箱堀」であることがわかりました。水が溜まっていた痕跡が無く、空堀です。また、掘り下げた土は黒土を混ぜて少しずつ固めながら内側に盛り上げ、土塁を築いています。崩れていた土の量から推定すると現在より約3mも高かったと推定されます。堀と土塁を合わせると比高差10m程となり、堅固な防御施設であったことが分かります。土塁からは14世紀後半から15世紀につくられた常滑焼の甕や鉄製小刀が出土しています。内部の建物跡は明確にできませんでしたが、柱穴が発見されており小規模な掘立柱建物が建てられていたと考えられます。
 調査では、12世紀~16世紀にかけての中国製陶磁器や常滑焼、渥美焼などが少量ですが出土しており、豊島氏の財力を示すとともに、生活用具の出土は内部建物で居住していたことの可能性を示唆しています。
 平成15年11月 東京都 豊島区教育委員会

周囲の状況

 三宝寺池・石神井川周辺は、武蔵野台地において貴重な水源を抱える地でもあり、古くから人が住む地であった。縄文時代の遺跡、「池淵遺跡」が、城の東端のさらに東隣で発見されている。

石神井公園内池淵遺跡、縄文時代遺跡の跡。遺跡そのものは埋め戻されている(2023/7/17)

 石神井公園内「石神井公園ふるさと文化館」(公式HP)は入場料無料の小さな博物館。石神井城関連の展示も少しだけですがあります。また、近傍には「石神井城の土塁に見立てた」防御施設のレプリカも。
 守っているのは市民プール。訪問時は夏休みの入口くらいということもあり、大行列となっていました。 

「石神井ふるさと文化館」脇、城の土塁に見立てた緑地。プールを守ってます(2023/7/17)

5 その他
 現在、周辺は石神井公園を中心とし、博物館やプールなどもある地域の中心となっている。
 

個人的回想
 この城が落城するに至った、長尾景春の乱におけるこの地方での一連の戦い、(江古田合戦、と呼ぶべきでしょうか)の前後における記録について述べて締めます。平塚城の項目でも触れますが、かつて「史実」と言われていた流れはかなり怪しいと思われます。
 歴史学において「エビデンス」(=証拠)が重要であることは間違いないのですが、かつてはこの「エビデンス」、資料・記録が最優先である空気がありました。石神井城を巡る戦いも、そのような空気の中、何かおかしい記述もスルーされてきた、といえるでしょうか。
 令和になり、「邪馬台国」に関する研究が飛躍的に進んでいます。これは、かつて日本人が盲目的に信じてきた「史実」、「魏志倭人伝」の記載とはことなる結果をもたらす発掘調査をきちんと向き合うことによって側面があります。
 今後、今まで「史実」としてみてきた記載の再検証は、いろんなところで進んでいくのかもしれません。

 石神井城主・豊島泰経の娘、「照姫」をその名に冠する「照姫まつり」は、今や石神井を代表する祭りとなっています。
 例えば寿能城の笛を愛する姫などのように、戦乱の中で悲劇的な死を遂げ、伝説となった姫は数多います。その中でも「照姫」は別格の良い扱いを受けているといっても良いでしょう。しかし彼女は、(司馬遼太郎によって生みだされたことが明確な新撰組隊士たちのごとく)その生み出された過程も明確である、という説も有力である人物でもあります。
 しかし、前述の状況を考えれば粗を衝くような詮索は無粋かな、とも思い、ここでの記載はやめておきます。


参考文献
※1 「日本城郭大系5 東京・埼玉」 266-268頁 (新人物往来社、昭和54)

外部リンク
石神井城跡」(練馬区HP)
練馬区歴史資料デジタルアーカイブ
 練馬区は区史などの資料をweb上に大量にアップしてくれているのです。神。
石神井 氷川神社」(神社公式HP)
 ※「ご由緒」の頁に石神井城に関する記載もあり。
石神井公園ふるさと文化館」(公式HP)
照姫まつり」(事務局HP)

内部リンク
・城メモ「平塚城