概要
宮城氷川神社。豊島氏の庶流、宮城氏の館跡と伝わり、館跡に勧請された氷川神社が今に伝わっているという。本殿に掲げられた神社の由緒と館址碑により城跡であるとわかるものの、それ以外には館の痕跡を示すものは全くない。
宮城氏は戦国時代に政業が岩付太田氏の家臣として活躍。その子孫は幕府に旗本として仕えた。豊島氏、ひいては中世のこの地域に関する重要な史料「豊島宮城文書」を今に伝えている。
(登城日:2023/7/8)
Ⅰ 所在地等
東京都足立区宮城 宮城氷川神社
Ⅱ 種別・利用法
居館
Ⅲ 築城時期
南北朝時代か
Ⅳ 築城者
豊島(宮城)重中
ⅤⅥ 主要な事象・遺構
特になし
Ⅶ 公共交通機関アクセス
地下鉄南北線、日暮里舎人ライナー、都電荒川線に囲まれているが、そのいずれからも微妙に遠い位置。
王子神谷から向かう場合は、少し寄り道になるが「清光寺(豊島清光館跡)」が所在している。
1 来歴
豊島氏庶流、宮城氏の居館。
宮城氏は鎌倉草創期の名将、豊島清元(清光)から6代後の豊島重中(重信の子)が宮城の地を開拓し、その地名を冠したことに始まるという。この際に築いた館内に、大宮の氷川神社から分霊を受け屋敷神として勧請したのが現在の宮城氷川神社という。
宮城氏は豊島氏が太田氏に滅ぼされた後は太田氏に仕える。
戦国時代には宮城政業が活躍。太田資正にも従うが、北条側についた子の氏資が資正を追放し岩槻城を奪取した際には氏資を支援し、以後は北条氏に仕える。
時期は不明だが、この頃には拠点は岩槻近傍に移っていたとみられ、その頃にはこの地を離れていたと考えられる。(参考※1)
秀吉による北条氏の攻略に際し滅亡。政業は北条氏房とともに高野山に登ったともいわれている。宮城氏は政業の曾孫、正重(正業)が旗本となり、存続している。(後述)
宮城氏館はいつまで使われていたのか
確かに宮城氏は岩付太田氏に仕え、普段も岩槻近くに居住していたのでしょう。しかし、宮城氏が岩付に移ったことで館が廃されたかどうかは少し微妙だと考える。
宮城氏に伝わる「豊島宮城文書」には、北条氏康から氏政への「代替」による「軍役改め」の通知が残されている。
これによると宮城氏の領地は、替地として氏康から与えられた菅生(現・川崎市宮前区)が大きいものの、他には太田氏から与えられた足立郡大まき(現・さいたま市緑区大間木、大牧)や舎人(現・足立区舎人)が大きく、やはり主体は岩槻の付近で活動していたのだろう。
一方で、「沼田之内 屋敷分」も所有している。これは現在の江北あたりと考えられ、宮城氏の本貫である宮城氏館あたりも領土として認められている可能性も考えられる。
いずれにせよ、館が廃された正確な時期は不明である。
2 構造
荒川のほとり、現在の宮城氷川神社が城跡と伝わる以外、城に関する伝来は一切残っておらず、その形状も大きさも不明である。
3 状況
遺構は全く残っていないが、現在でも、宮城氏が勧請したのが元となっている「宮城氷川神社」が鎮座している。
なお、神社の由緒によると、大正二年に荒川改修工事のために移転するも、昭和二十年に戦災で焼失し旧地に再建。昭和30年に宮城公園が出来たため、現在の位置になったとのこと。
4 伝承
足立庄の「宮城宰相」の娘が豊島氏に嫁ぐも嫁ぎ先とあわずに侍女ともども自殺してしまうのが足立に伝わる悲劇「足立姫伝説」。
この宮城宰相という人は(そもそも実在しているかどうか含めて)詳細不明である。
館址碑
(碑はカナ漢字交じりですが、ひらがなに直します。【】は私のつけた読み仮名です。)
史跡 宮城氏居館之跡
此の宮城の地たる、もと中世の豪族宮城氏の居館を構えし所なり。宮城氏は武州豊島郡を領せる豊島氏の一族にして、凡そ五百数十年前、豊島重信の子重中、新たに足立郡宮城を領し、地名を冠して姓とし、吉國、正業、為業相継ぎて此の地を知行す
幾ばくもなく北條氏康関東を征す。是によって宮城氏改めて其の麾下に属し、廔【しばしば】戦功を立て、足立郡のほか各所に知行を与えらる。後、為業の子泰業、太田氏房に従い武州岩槻城に移り、天正十八年五月、太田氏豊臣秀吉の為に滅ぼさるや、宮城氏亦是に随って滅ぶ。氏房は蓋し氏康の孫なり。
洵【まこと】に宮城の地たる、此の如き由緒を有す。然るに今其の来歴を知る者殆どなく、識者常に之を遺憾とす。
依て今回其の事蹟を顕すため、碑を城址に建て、梗概【こうがい】を記して世人に知らしめ、併せて是を後世に残さんとす。
昭和四十六年十一月三日
高梨輝憲撰
立誉了巖書
宮城氏、長く生きる ~「豊島宮城文書」
宮城氏で著名なのは戦国時代太田氏の重臣として活躍した宮城政業だろう。「信長の野望」などゲームにもよく登場するし、その驚異的な長寿をご記憶の方もおられるだろう。
政業は史実でも95歳まで生きた長寿で、岩付太田氏の代々に仕えた。
資頼以降、6代の君主に仕えたという。
(岩付太田氏 資頼→資顕→資正→氏資→源五郎 →北条氏房か。太田氏の代替わりの状況については「太田氏の動静」にてまとめています)
宮城家側も、政業から曾孫の正重までの四代が揃って仕えたこともある。
また、正重(正業)は徳川秀忠に仕えて旗本となり、子孫は江戸時代を通じて江戸の地で長く続いた。そして宮城氏と本家・豊島氏に伝わる文書を明治まで残し、それは現在でも国立公文書館に「豊島宮城文書」として保管されている。
本家の豊島氏も旗本となるが江戸城内で刃傷沙汰を起こし旗本としては一度廃絶しており、まとまった資料は残っていない。(城メモ「清光寺」に経緯をまとめています)
また、宮城氏と北条氏の間の書簡も残っており、特に北条が氏康から氏政に代替となった際の軍役改めに関する書状や、軍隊の整備・進出を証明する書類である「着到状」など、他に現存例が少ない資料も多く残っており、北条氏の施政を調査する際にも重要な史料となっている。
長寿武将として有名な政業だが、その家も長く残ったことで、現在に貴重な史料が残っているのでした。
宮城氷川神社由緒
氷川神社が館跡と伝わる以外は全く遺構はない。ただ、現在も「宮城」地名が残っている。
氷川神社本殿には由緒が掲示されており、内容も宮城氏に関わる部分もあるのだが、一部判読が難しい字があり、全文の書き起こしは断念します。
個人的回想
東京の城の歴史を漁っていく中で「豊島宮城文書」の名前を見て衝動が湧き。昔に訪問したことはある城ですがふらっと行ってきました。
(5月に「清光寺」に行っておきながら忘れていた、というのもあります)
言われなければ城跡とはわからないような住宅街の中の普通の神社、遺構も全くなし。戦国時代に城として利用されていたとは思えず、宮城氏自体も知名度はそれほど高くもない。と有名になるような要素はあまりない。
実際、この碑が建つまでは、城跡ということは忘れられていたのかもしれません。碑文(折り畳み「館址碑」にて前述)の末尾には、宮城の歴史が伝わらないことに対する悲しみと、それを良しとしない決意が込められているのが感じられます。現在の情報化社会において、掘り返された城跡と呼んでよいでしょう。
僕のこの拙文も、その記録が後世に残る一助となれば幸いです。
参考文献
※1 「日本城郭大系 5」272頁 (新人物往来社、昭和54年)
内部リンク
・城メモ「清光寺(豊島清光館)」
・資料集「小田原衆所領役帳」
・資料集「太田氏の動静」
更新履歴
R5.7.21 宮城政業と岩付太田氏の関連について一部補記