くま城戦軍研 ―熊代城砦戦国軍事研究所

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資料室

清光寺(豊島清光館)

清光寺、門と本殿。城館らしさは全く残っていない。(2023/5/6)

概要
 北区神谷の地に現在も残る古刹。新義真言宗豊山派。
 源頼朝に従い名を挙げた豊島清光(清元)が開基した古刹であり、元は清光の館があったところだという。しかし豊島氏が本拠地を移したという証拠はなく、本拠地はあくまで平塚城(後に石神井城)だったと考えられる。
 一方で豊島氏にとっては重要な寺だったと見え、石神井城を失った後も、子孫たちが出世するごとにこの寺を修復している。
 城館として紹介されることが多く、「日本城郭大系」にも掲載されている。(参考※2)
(登城日:2023/5/6)

Ⅰ 所在地等
  東京都北区豊島7丁目
Ⅱ 種別・利用法
  居館(可能性)
Ⅲ 築城時期
  平安時代末期~鎌倉時代初期(可能性)
Ⅳ 築城者
  豊島清元(清光)
Ⅴ 主要な事象
  室町時代に二度、山賊に荒らされ寺は荒廃。
  豊島泰経が太田道灌に敗れると更に荒廃。
  天正15年(1546)豊島頼継が再興するも、上杉家に頼継が敗れ荒廃。
  江戸時代に豊島明重(信満)により再興され現在に至る。
Ⅵ 遺構
  度重なる荒廃により古い遺構・遺物はなし
Ⅶ 公共交通機関アクセス
  地下鉄南北線・王子神谷駅から700mほど。

国土地理院地図を利用して作成

1 来歴
 豊島清元(清光)により開基したとされるが、寺の縁起では保元2年(1157)に清元の父、康家により開基されたという。
 豊島氏が本拠地を近傍の平塚城から西方の石神井城に移した応永年間(1398~1428)以降は豊島氏の加護を離れ廃れた可能性がある。特に寛正年間(1460-65)、応仁年間(1468-68)に山賊などの略奪を受け荒廃した。また文明九年(1477)豊島泰経に味方し寺の衆僧も共に戦ったが太田道灌に敗れ、さらに荒廃した。
 天正十五年(1546)北条家に仕え常陸国府川城の城主となった豊島頼継(泰経の孫)が中興開基する。
 永禄2年(1559)の「小田原衆所領役帳」によれば、江戸衆「島津孫四郎」の知行地として「十四貫文 豊島之内清光寺分 練間ニモ有之 志村内ニモ有之」とあり、大きな寺院であったことが伺える。
 しかし、永禄六年(1563)上杉等の残党が府川城を攻めた際に豊島にも押寄せ、清光寺にも放火したため再び焼失したという。
 江戸時代に家康に仕え、目付け役となった豊島信満(明重)が再興。信満が江戸城内で刃傷沙汰を起こした際も特に咎は無く、現在まで存続している。

2 構造、状況
 城館らしさは無い平坦な寺である。
 度重なる荒廃によるためか古い遺物などはなく、江戸時代中期に造られた「木造豊島清光坐像」が安置され、有形文化財となっている。

3 豊島清光館
 豊島氏の居城は応永初期(1395頃?)に石神井城に移るまでは平塚城(城メモ、現・上中里)であり、清元(清光)の後にも変化した様子はない。彼の館があったとされるこの地だが、豊島氏の本拠地となったわけではなさそう。
 清元は源頼朝の挙兵草創期に子の葛西清重とともに活躍したが、平家討伐に西進するようになると、子の豊島朝経が目立つようになる。清元は家督を朝経に譲り隠遁し、この地に館を築いたのではないか。
 来歴と被るので多くは語らないが、城ではなくても豊島氏にとって大事な寺ではあったのは間違いない。そのため、現在に至るまでただの寺ではない特別な扱いを受けているのかもしれない。

4 豊島氏のその後
 後北条氏に仕え所領を得て、一度は清光寺を一度再興した豊島頼継(府川豊島氏)だが、後北条氏の滅亡に際して没落。
 その後、頼継の子・頼重の子、信満(明重)は家康に仕え、大坂の陣に従軍しお目付役(1,700石)に昇進。名家の嫡流として、縁ある古刹の清光寺を再興し、安泰かにみえた…中で起きた事件については、本項の主旨から外れるので畳んで説明します。

豊島信満の哀しい最期

 目付け役となった信満は、老中・井上正就の嫡子、正利と、大坂町奉行・島田直盛の娘の間に持ち上がった縁談を取りまとめ、仲人を務めることが決まっていた。
 しかし妨害が入る。しかも入れてきたのは、当時の幕府で実質的に将軍の次に偉いとまで言われ権勢を誇っていたあの春日局である。
 春日局は、正就に嫡子・正利への縁談を持ちかける。相手は鳥居成次(元忠の三男、甲斐谷村藩初代藩主)の娘。正就も相手が春日局とあっては断れず、島田家との縁談を破棄し鳥居家との縁談を受ける。
 面目を失った信満は、江戸城西の丸廊下で井上正就と相対すると「武士に二言は無い」と叫び脇差で切りかかる。驚いた番士の青木義精が止めようと信満の背中からとびかかるも果たせず、信満は正就を斬り倒し、その場で脇差で切腹。切腹した刃が背中から突き出し、その怪我で青木も死んでしまう。これが江戸幕府史上、江戸城における最初の刃傷沙汰となる。
 事の顛末を聞いた島田直盛も「豊島に申し訳が立たない」と切腹。正利は咎めがなく、そのまま鳥居成次の娘を正室に迎えるが、結果として関係者の(春日局以外)全員が哀しい目にあう結末を迎えてしまう。

 信満はその場で死んだがその関係者には大きな咎は無く、その遺児は紀州藩に仕え、吉宗が将軍となった際に幕府御家人となっている。ここでも豊島氏と紀州との縁が出てくるのは面白い。

解説板
解説板。道路から境内に入ってすぐ左手に所在。(2023/5/6)

清光寺(せいこうじ)
      北区豊島七ー三一ー七

 清光寺は医王山と号し、新義真言宗豊山派に属する寺院です。
 江戸時代の地誌「新編武蔵風土記」は、この寺は豊島清光(清元)の開基で寺号もその名によること、北条常家所領役帳(永禄二年(1559))に島津孫四郎知行十四貫文が豊島の内清光寺分とあって、当時大寺であったと推定されること、本尊の不動名をを行基の柵で豊島の七仏の一つであること、境内に正安三年(1301)、文治二年(1186)、永福五年(不明(私年号))の四基の古碑があることを伝えています。
 また、ある旧家に伝わるこの寺の縁起(豊島重源の作、元和四年(1618)によれば、山号は常康山、保元二年(1157)豊島康家(清光の父)の開基で七堂伽藍が建立されたこと、寛正年中(1460-65)、応仁年中(1468-68)山賊悪徒等により寺宝・寺領などを略奪されて寺が荒廃したこと、文明九年(1477)豊島泰経と太田道灌との戦いに際し、この寺の衆僧も共に戦ったが豊島勢の敗北とともに寺も没落してしまったこと、天正十五年(1546)府川城主豊島頼継(泰経の孫)が中興開基したが、永禄六年(1563)上杉等の残党が府川城を攻めた際に豊島にも押寄せて放火したため再び焼失したこと、この後豊島明重が再興したということです。
 この寺には豊島清光の木像が安置されています。この銘によれば、寛保二年(1742)の作で領主は祐具、施主は長谷川弥兵衛とあり、祐具は当時境内寺内にあった釈迦堂の住僧であろうといわれ、長谷川弥兵衛は新田村(現足立区新田)の豪農であったということです。豊島清光は、その子葛西清重らとともに源頼朝の幕府創業に参加し、豊島一族の中でもっとも名の知られた人で「吾妻鏡」などにもその名が見えます。
 なお、この地に豊島氏の居館があり、その持仏堂が清光寺であったという説や「続日本記」「延喜式」などに見える豊島駅がこの地にあったという説があります。
  平成三十年三月
       東京都北区教育委員会

豊島清光坐像の解説。こちらは本道の脇に所在(2023/5/6)
周囲の状況(豊島氏と紀州の縁)
清光寺近くの紀州神社(2023/5/6)

 清光寺近くに所在する「紀州神社」は、元亨年間(1321-24)、紀州熊野から訪れた鈴木重尚が五十太祁神社(現・伊太祁曽神社(wiki))を祀ったのが始りとされる。
 清元の子、朝経が平家討伐の功績で紀州守護に命ぜられており、豊島氏と紀州の縁は深い。京に近い当時の紀州は、当時の武蔵とは比べ物にならないほどの文化の先進地。豊島氏は紀州を通じて中央の文化を積極的に取り入れ、領国の発展に利用したとされている。
 なおこの神社、古来より豊島村の総鎮守であったのだが場所は王子村に近かった。伝承によると天正年間(1573-92)に王子村と豊島村が水を巡って争いとなった際には、奪われることを危惧した豊島村が辺鄙なところに神社を移した。すると村人の夢枕に「紀州さん」が立ち「寂しい。賑やかなところに行きたい」という。多くの村人が同じ夢を見たために、現在地に移され現代に至るとのこと。(なんかかわいい)

個人的回想
 「日本城郭大系」はじめ様々な資料で城郭として扱われているのですが、やはり、基本的には普通の寺院に思えます。豊島氏VS太田道灌の際には出兵しているが、それは当時はよくあること。それよりも、室町時代に二度も山賊風情に荒らされている方が気になります。豊島氏居城がそれはないと思いたい。
 ただ本文中にも書いたとおり、この寺は「豊島氏が力を盛り返す度に復興させてきた、特別な寺」であるのは間違いない。やはり、歴代豊島氏でも随一の知名度を誇る清光(清元)の力が大きいのかな、とも思います。「平塚城」なんかは無視されているっぽいし。


参考資料
※1 「小田原衆所領役帳」79-80頁(校訂・杉山博、近藤出版社、昭和44)
※2 「日本城郭大系5」261頁(新人物往来社 昭和55年)

内部リンク
・城メモ「平塚城
・城メモ「石神井城
・資料集「小田原衆所領役帳