くま城戦軍研 ―熊代城砦戦国軍事研究所

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岩淵町町名存続

岩淵八雲神社に残る「岩淵町町名存続の碑」。立派である。(2022/10/9)

関連項目:戦国地域情勢「赤羽・岩淵
     城メモ「稲付城

この項目は、史実に基づいて記載していますが、面白さ等を求めて、いくらか大袈裟、または恣意的に選択した記述がある場合があります。

目次
1 概要
2 岩淵の伝統、赤羽の繁栄
3 第一次防衛戦、勝利し岩淵町成立
4 第二次防衛戦、王子に敗れ王子区に
5 第三次防衛戦、岩淵地名消滅の危機に勝利
6 エピローグ、第四次攻防戦?


1 概要
 この項目では、上に示した「岩淵町町名存続之碑」に示される、伝統ある地名「岩淵」を残すために戦い、ついに「岩淵町」の名を残すに至った、その誇り高い戦いの歴史について記す。

「岩槻街道岩渕宿問屋場址之碑」(ママ)新荒川大橋袂、マンションの前に建ってます(2022/10/9)

2 岩淵の伝統、赤羽の繁栄
 古くから岩槻街道の渡河地点として、また水運の拠点として栄えた岩淵。江戸時代にも日光御成道の宿場町として栄えた。
 戦国時代の北条家臣の領地を示す「小田原衆所領役帳」にも、この地は「岩淵五ヶ村」(岩淵、赤羽根、下、袋、稲付)として記されていた。
 江戸時代にも、江戸の北方は広く「岩淵領」という特別な名称で呼ばれており、特に岩淵は「本宿」と呼ばれ、他の村とは違う扱いをされていた。
 地域の中心であり、地域を代表する地名であった「岩淵」に対し、寒村に過ぎなかった赤羽根が一気に発展するのは明治以降である。
 明治4年には陸軍火薬庫が建設。行政的にはこの年に浦和県を離れ東京府の大区小区制下に置かれる。
 明治18年に鉄道の赤羽駅が開業。赤羽駅の開業前には、岩淵町への駅の誘致も行われたが失敗している。そもそも赤羽駅は上野ー熊谷間の鉄道から、品川線を分岐させるため置かれたものであり、川向の岩淵に作る意義は薄かったと考えられる。

 (余談ながら少し鉄道の話を。上野ー熊谷線は王子、浦和経由。品川線は板橋~池袋~新宿~品川のルート。つまり、明治18年の時点で、京浜東北線(東北本線)と埼京線の交点として東京の北西の玄関口となる赤羽、という構図はすでに出来上がっている)

 明治11年には北豊島郡に編入。
 交通ハブの赤羽駅の建設と、駅周辺における軍需施設群の建設、工兵大隊の移設などにより、赤羽は栄えていく。一方、鉄路の発達により舟運は廃れていく。鉄道で簡単に荒川を渡れることもあり、岩淵は一気に廃れていった。

3 第一次防衛戦、勝利し岩淵町成立
 岩淵町の町名存続の最初の危機は、明治21年、市制町村制制定の際である。
 市町村に法人性と、ある程度の地方自治を認めるこの制度を前に、日本各地の村々は大きく揺らいだ。岩淵もその例外ではなく、市制町村制下での形について激論が交わされた。この頃、すでに水運が衰退し廃れつつあった岩淵と、交通の要衝として栄えつつある赤羽の立場は完全に逆転していた。その流れから、周辺町村を合併して「赤羽村」を設立する動きが出たが、理事会により否決された。
 翌明治22年、かつての岩淵郡(本宿、赤羽、下(志茂)、稲付、袋)に神谷を加えた地域を以て岩淵町が設立。工業地帯として栄えつつあった王子や滝野川が「村」である中、岩淵が「町」となったのは、本宿として特別扱いであった岩淵が「一度も村となったことがないため」ともされる。それが事実とすると赤羽をはじめとする町下の住民たちも、赤羽村を名乗らず岩淵町の名を守ったことによる恩恵を受けていた…のかもしれない。
 大正期には荒川改修により南岸に移動した浮間地区を編入して昭和を迎える。

4 第二次防衛戦、王子に敗れ王子区に
 伝統ある岩淵は、鉄路の要衝・赤羽を含む岩淵町として安泰かに見えた。
 一方その頃、赤羽を凌ぐ大発展を遂げていたのが王子である。江戸時代から参詣地・観光地(王子神社、王子稲荷、飛鳥山、松橋弁財天など)として栄えていた王子だが、昭和初期には王子製紙や火薬工廠、多数の化学工場などを擁する東京第一の大工業地帯として生まれ変わりつつあり、多くの資本と人口を集めていた。
 そのような情勢下で発生したのが、昭和7年(1932)の東京市拡大である。以前から周辺郡部を含んだ「大東京」という表現はあったが、ここに公式に東京市が拡大。現在の東京特別区とほぼ同地域が「東京市」として成立する。
(正確にはこの4年後、砧村と千歳村を併合して現在の特別区と同一となる)
 東京市の「区」となるにあたり、郡部の町村はまたも大きく揺らいだ。巨大勢力となっていた王子町。南の滝野川は都心部との合併を望み果たされず、滝野川区として独立を保った。一方、北の岩淵町は王子町との合併を選んだ。かつて新興勢力の赤羽と争った時には名を死守できたが、相手も江戸時代から繁栄していたとなると分が悪かったか、区名も譲る形で「王子区」とされた。
 ここに、周辺地域の代表地名としての「岩淵」は消滅する。赤羽は王子区赤羽町となり、歴史上はじめて岩淵と対等の立場となった。

5 第三次防衛戦、岩淵地名消滅の危機に勝利
 岩淵は王子区岩淵町として激動の時代を越えた。昭和18年(1943)東京市は東京都となり、昭和22年(1947)、王子区は滝野川区と合併し北区となった。
 そんな中、再度岩淵町消滅の危機が訪れる。
 昭和37年に施行された「住居表示に関する法律」である。
 わかりやすい住居表示を、旧地名に優先するともとれるこの法律により、多くの旧地名が消失した。特に東京では、八百八町と歌われた地名のうちの多くが、住所表記としては消滅している。
 岩淵町もまた例外ではなく、北区はこの地域を「赤羽なんとか」に変えようとした。
 かつては江戸北方を代表する地名であった岩淵を、消させてなるものか。住民たちは区と戦い、結果として、当時存在した「岩淵町1丁目」「2丁目」のうち、1丁目を「岩淵町」として存続させることに成功した。
 ほんの数十年後に、住所など簡単にパソコンで処理できる時代が来ることがわかっていれば、おそらく不必要であったこの政策により、日本からは多くの地名が(少なくとも住所からは)失われていった。現に鎌倉時代から地名が存続していた稲付は「赤羽西」「赤羽南」、袋は「赤羽北」にそれぞれ変更されてしまっている。
 もちろん、歴史があるからといって変に小さい地名を付けるよりも、東京の代表的ターミナル駅の一つに成長した赤羽から見てどう、という地名の方が分かりがよい。地価などにも影響したかもしれない。そのような中、鎌倉時代から続く宿場町であった「岩淵」の地名を守ったこの地区の住民の方々には、心から賛辞を贈りたい。

6 エピローグ、第四次攻防戦?
 平成3年、地下鉄南北線が開業する。
 この終点となる駅の名前、計画段階では「岩淵町」駅であった。駅名が変わった経緯は不明ではあるが、結果として「赤羽岩淵駅」が開業。
 この地域の歴史を知らないと、「赤羽はわかるけど、岩淵って何?赤羽と違うん?」などと思ってしまいそうだが、とりあえず「岩淵」の名前はしばらくは残るだろうし、その名が人の記憶から消えることはひとまずなさそうである。
 あとは、
「本来この辺り一帯は岩淵。赤羽が成長したのは明治以降だから」
 と誰かがこっそりと主張し続ければいいのだろう、と嘯いて本項を締めます。


内部リンク
・戦国地域情勢「赤羽・岩淵
     城メモ「稲付城