くま城戦軍研 ―熊代城砦戦国軍事研究所

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資料室

麦島城

関連項目:「徳淵津」(資料集)

「八代市シルバーワークプラザ古城館」で見学できる麦島城の石垣跡(2019/1/4)

概要
 小西行長が肥後の南半分を治めた際、古麓城を廃し築いた城。
 重要な流通拠点であった「徳淵津」(資料集)を城域に含むように築かれ、行政府と軍港、流通拠点を兼ねている。水軍の将として、また堺の商家の出自としても知られる小西行長にふさわしい「港城」。
 関ヶ原の合戦後、肥後一国が加藤清正の領主となった際も改修して利用され、一国一城令の際にも例外として保持された。
 しかし元和5年(1619)に発生した大地震により倒壊。しかし肥後において一国一城の例外は引き続き認められ、新たに八代城が築かれることになる。
(登城日:2019/1/4 それ以降に状況は変わっている可能性があります。)

Ⅰ 所在地等
  熊本県八代市古城町
 (国史跡「八代城跡群」(文化庁HP)の一部)
Ⅱ 種別・利用法
  海城
Ⅲ 築城時期
  天正16年(1588)
Ⅳ 築城者
  小西行重(小西行長家臣)
Ⅴ 主要な事象
  関ヶ原の合戦の際、加藤清正が攻撃。
  元和5年(1619)、大地震により倒壊、廃城
Ⅵ 遺構
  石垣、堀など(埋め戻されており、地表面上はなし)
Ⅶ 公共交通機関アクセス
  JR九州鹿児島本線/肥薩おれんじ鉄道・八代駅から3kmほど

国土地理院地図を利用して作成。低地の高低差が分かるように、標高2m単位で色を変えている。城の西方は当時は海である。陸に食い込む徳淵津と、球磨川に挟まれた突端に築かれた港城、麦島城の位置取りがわかりやすいかと思う。

1 来歴
 天正15~16年(1587-88)、秀吉による九州討伐及び肥後国人一揆討伐で功績を挙げた小西行長は、肥後南半分の領主となり、新たに宇土城(近世宇土城)を築き居城とした。同時に築いたのがこの麦島城である。
 この地には相良氏時代から二世紀を越える時代を持つ古城、「古麓城」が存在したがそれを廃して築かれた。築城を指揮したのは行長家臣の木戸作右衛門末郷。築城後、小西姓を与えられ「小西行重」(wiki)を名乗り麦島城代となる。
 船舶が直接城に入ることができた港城であるとともに「徳淵津」を城下に取り込む形になっている。
 「徳淵津」の詳細は資料集で説明するが、古くは名和氏もこの港を拠点に対朝鮮貿易を実施しており、名和氏の後に八代を治めた相良氏もこの港を拠点に対明、対琉球の貿易を実施しており、そのための御用船「市木丸」もここ徳淵で建造している。(参考※1)単なる港ではなく、船舶の建造・維持の能力も持つ、一大交易拠点であったことが見てとれる。
 天守台の南方からは鯱瓦が発掘されており、当時の天守に飾られていたものとみられる。当時、鯱瓦の設置は秀吉の許可が必要であり、この城の重要性が見てとれる。
 麦島城は単なる防衛拠点・行政の中心としての城というだけなく、軍港、かつ商港としての働きを担っていたと考えられる。特に「徳淵津」は秀吉の直轄港として扱われており、小西家の一支城としての役割を越え、豊臣政権の対外交易の拠点として意識されていたのではないか。

 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いにおいては、西軍の中心として関ヶ原に出陣した小西行長の留守を衝き加藤清正が肥後南部を攻撃。城主の行重は宇土城の小西行景や島津家と協力して防戦する。防衛には成功したものの、西軍の敗北と行長の刑死を知った行重は島津家に逃れた。(以後の行重については後述)
 以後、関ヶ原の功績で肥後全土が加藤清正の領土となる。
 麦島城は引き続き南肥後の中心として重視され、蟹江与惣兵衛・野尻久左衛門が城番となり地域を開発。
 清正死後に熊本藩主となった加藤忠広は慶長17年(1612)に加藤正方を城代とした。(参考※2)詳細な時期は不明だが、加藤家統治期に改修が行われたことが遺構から明らかになっている。

天守台付近解説板から、加藤時代の改修状況が見てとれる小天守の出土状況(2019/1/4)

 元和元年(1615)に「元和の一国一城令」が令されたが、麦島城は例外として廃城を免れた。忠広は佐敷城や宇土城などの要衝よりもこの麦島城を選んで存続を願っており、重要視されていたと考えられる。

 元和5年(1619)、大地震により城は倒壊した。以前は伝説的に伝えられていたこの逸話だが、後の発掘調査で倒壊したまま放置された櫓跡などが見つかり、信頼性が高まっている。

天守跡の解説板より、地震で倒壊したままの姿で発掘された二の丸平櫓とみられる建造物の残骸(2019/1/4)


 城は失われたものの、一国一城令の例外は失われず、新たに「八代城」(松江城)が近傍に築かれ、加藤家の後に肥後に入る細川家にも利用され、幕末に至っている。麦島城の石垣等は八代城築城に利用されたと伝わっており、城の遺構は、少なくとも地表面にはほとんど残っていない。

2 構造
 城は海に臨み、船がそのまま入ることが出来た。
 城周辺の状況をよく示す、現地案内板の図から。
 前述の地形図で、麦島大神宮を中心とした微高地がみてとれると思うが、それが麦島城跡である。 

天守台跡の解説板より。解説板全体は後述。(2019/1/4)

 本丸の西側は現在は陸地だが、かつては海であり、天守台は西へ続く海を臨む形であった。外洋からの艦船がそのまま入城できる城であったという。
 北側は砂州の屋敷地を挟み、中世には大陸への交易にも用いられ、秀吉統治後は直轄の地となった重要港湾「徳淵津」に臨む。
 南側も砂州の屋敷地を挟んで球磨川の河口部に臨み、人吉方面との交易拠点「せんたんの津」(栴檀の津、現在も地名が残る)が存在した。南北を重要港湾に挟まれ、城そのものも軍港として機能する海城であったといえる。
 なお、徳淵津は城の北側に入江のように入り込んでいた海である。現在は球磨川と「前川」で結ばれ城の北側を貫いているが、これは江戸時代・細川氏による掘削であり、当時は存在しない。
 
3 状況
 地震により城は壊滅し、その後の市街地化もあり、地表上はその遺構は見られない。天守台は今でも周辺より高く、その地に行けば一目瞭然である。周辺に石が並べられているが、天守台の位置を示すものとみられ、遺構ではないだろう。
 その周辺に解説板と標柱がある。

天守台跡近く、解説板と標柱。この左側がまさに小高い天守跡だが、民家と民間車両があるため写真公開は自重します。(2019/1/4)

 その遺構は発掘調査の後に多くは埋めなおされて市街地となっているが、八代市の施設「シルバーワークプラザ古城館」において、地下の石垣が見学できるようになっている。(ページ冒頭の石垣写真、平日のみ)

シルバーワークプラザ近傍、「二の丸跡」の解説板(2019/1/4)
「シルバーワークプラザ」の状況。このアクリル板の下に、現建造物の地下にある石垣(ページ冒頭写真のもの)が展示されている(2019/1/4)

4 特徴
 城本体が海に面し、海軍がそのまま利用できる構造なのに加え、当時の最重要級港湾「徳淵津」、人吉方面の水運を担う球磨川河口を城域に含む海城。
 まさに水軍の将かつ商人の子、小西行長らしい城といえる。
 その築城には秀吉の強い意向があったともされ、徳淵津を直轄としたことと合わせ秀吉の対外交易を重視した国家運営方針も見えてくる。
 小西家の一支城には収まらない、重要かつ興味深い城と言える。

解説板
天守跡に立つ解説板(2019/1/4)

 八代市指定史跡 昭和40年4月12日指定 麦島城跡

 この場所は、麦島城の北西隅にあった天守台跡です。麦島城は、天正16年(1588)、宇土・益城・八代・天草の領主となったキリシタン大名・小西行長が、名和氏・相良氏時代の古麓城を廃して、重臣の小西行重(末郷)に命じて築かせた城です。当時麦島は中世以来の貿易港の徳渕の津と球磨川に挟まれた水運に適した場所でした。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後、八代は加藤清正の治めるところとなり、麦島城も加藤氏の支城となりました。支城となった後、麦島城の改修が行われました。また、慶長8年には麦島城下でキリスト教徒の殉教がありました。元和元年(1615)、大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡すると「一国一城令」が出されましたが、肥後国の加藤領は例外として熊本城と麦島城の二城が残されました。麦島城は同5年3月の地震で倒壊しましたが、幕府の許可を得て翌6年の2月に現在の松江城町で城の再建が始まり、同8年に現在の八代城(松江城)が完成しました。
 麦島城は、中世の山城から近世の平城へ城の立地や造りが移り変わる時期に築かれた九州で最も古い近世城郭の一つです。
 平成8年(1996)から15年(2003)にかけて行われた発掘調査では麦島城の規模(東西約400m・南北約350m、本丸は約130m四方)が改名されたほか、小天守跡では豊臣秀吉の許可が必要であった金箔鯱瓦や、小西行長が文禄の役のときに釜山から持ち帰った「隆慶二年」(中国の年号、西暦1568)の年号がある滴水瓦が見つかりました。また、二の丸跡では平櫓とみられる建物が倒壊した状態で見つかりました。
 現在、シルバーワークプラザ八代古城館では、発掘された石垣の一部を見ることができます。
※写真の数字は、右の「麦島城跡縄張図(推定)」の番号と一致します。
             平成21年1月 八代市教育委員会
 
 

城主・小西行重

 麦島城主・小西行重は元を木戸作右衛門末郷と言った。行長に仕えその功績を認められ、麦島城の築城後に小西美作行重となり、同城の城代となった。
 関ヶ原の合戦においては、宇土城の小西行景と連携し麦島城を守るが、加藤清正の巧みな用兵により連携を絶たれ、同じく西軍に与した島津家の助けを得て何とか麦島城を守る。その後、関ヶ原の敗戦と行長の刑死を知ると、行重は薩摩に逃れたという。
 その後は諸説あるが、そのまま島津家に伺候した可能性が高いか。一説には、息子のドン・ディエゴは島津家久の棄教令を拒絶し、マニラに旅立ったともいう。
 

個人的回想
 地震で失われたのが惜しまれる、当時の築城技術と街づくりの技術の粋が込められていたであろう「港城」。相良氏の拠点として南肥後の中心であった八代の町、特に「徳淵津」を活かしつつ、球磨川河口も取り込むことで南肥後の流通の中心となる城となっている。遺構からは見えてこないが、城に直接船が入れる構造は、水軍の運用にも深くかかわっていたとみてよいだろう。
 同じく小西行長が築いた近世宇土城も別の理由で原形を留めていないが、こちらも水軍運用を考えた城であったとされている。朝鮮出兵和平交渉のやらかしや関ヶ原の敗戦などで名を落としている小西行長だが、この麦島城からは流石水軍の将、流石商家出身、といったセンスが垣間見える。こういった軍港・商港をかねつつ地域統治の礎となった南肥後の城たちが一つでも残っていれば、そういった点でも評価されえたのではないかな、とも思う次第です。


参考文献
※1 「アジアの中の戦国大名」 22頁 (鹿毛敏夫、吉川弘文館、2015)
※2 「日本城郭大系18」330-332頁(新人物往来社 昭和55年)

外部リンク
・「八代城跡群」(文化庁HP)
・「麦島城跡(国指定)」(八代市HP、観光情報)
 -埋め戻される前の麦島城石垣の写真が載っています。

内部リンク
・「徳淵津(徳渕津)」(資料集)