くま城戦軍研 ―熊代城砦戦国軍事研究所

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徳淵津(徳渕津)

関連項目:「麦島城」(城メモ)

 本項は、現・熊本県八代市に所在し、中世から近世にかけて重要港湾として存在感を示した「徳淵津」(とくふちのつ)について記載する。

八代市内、徳淵の津跡に立つ標柱。淵と渕の表記ゆれは気にしだすときりがないので、本項では「淵」で統一します。(2019//1/4)

1 概要
 徳淵津は、八代市内の球磨川河口デルタ地帯に存在していた入江で、室町時代初期にはすでに港湾として利用されていた。この地を治めた名和氏、相良氏はこの港を利用して独自に外国との交易を行い、収益を得ていた。相良義滋はこの地で外国交易用の御用船「市木丸」を建造しており、造船機能も有していたのがわかる。
 豊臣政権では秀吉直轄の港とされた。小西行長は相良氏時代の古麓城を廃し、この港を意識した海城「麦島城」(城メモ)を築く。
 江戸時代には麦島城の崩壊を受け、徳淵津の北に「八代城(松江城)」が築かれる。また、前川や新川(現・前川)が掘削され八代の町は大きく変化。その後、徳淵津は土砂が堆積するようになり、明治元年に下流に「蛇籠港」が築かれ、重要港湾としての使命を終える。

国土地理院地図を利用して作成。低地の高低差が分かるように、標高2m単位で色を変えている。

2 名和氏時代(南北朝~室町後期)
 名和氏は後醍醐天皇の建武政権の主力武将であったが足利尊氏に敗れ没落、顕興は八代に下向し、その後も南朝の懐良親王や良成親王と協力、一時は八代の高田に征西府を置くまでになるが、九州探題の今川了俊が八代を攻略すると耐えられずに降伏、所領を安堵された。
 以後、相良氏に攻略されるまで八代は名和氏領となる。
 名和氏は永享7年(1435)に名和教信が派出したのを皮切りに、朝鮮への使節派遣を頻繁に実施している。朝鮮側の記録「海東諸国記」(wiki)では教信は年に一度の来航を約束したとのこと。かなりの頻度で朝鮮との交易を実施していたとみられる。(参考:「球磨川下流の土木治水史」)

3 相良氏時代
 八代への進出を狙う相良家と名和氏の抗争は長く続くが、永正元年(1504)に相良長毎(wiki)が菊池氏・阿蘇氏の支援を得て古麓城を攻め取り、ついに八代を奪取。(なお、名和顕忠(wiki)は紆余曲折の末に宇土城に入ることになる)
 徳淵津は引き続き、重要港湾として相良氏に重用されることとなる。
 天文8年(1539)、相良家の御用船「市木丸」(初代)の進水式を相良義滋(wiki)が執行。徳淵は造船機能も有していたのだろう。
 天文11年(1542)、琉球王国の外交僧・円覚寺全叢が、義滋に対して手紙を送っている。これは義滋が琉球王国に船を送り、数々の進献物を贈ったのに対し、琉球王国が砂糖150斤(斤=600gとすると90kg。中国の斤は時代によって上下が激しいので正確には不明)を添えて船頭に持たせたものという。琉球は相良氏の船を「国料船」と認識しており、相良氏は自前で琉球と交易するほどの能力を持っていた模様。「市木丸」が使われた可能性も高い。(参考※1)

 相良氏は対明貿易も積極的に実施。
 領内宮原(現・あさぎり町岡原付近)で天文15年(1546)銀山が発見されたといい、この財力を元にして積極的な対外交易に打って出た可能性もある。
 明は海外との貿易を禁止していたが、勘合を持った相手には「貢物の進上と、それに対する返礼」という形での、限定的な貿易を認めていた。これの他、八代からは「倭寇」が明に向かっていた記録もある。(当時の倭寇には文字通りの海賊だけではなく、私的な交易を違法に実施する者たちも含まれている)
 弘治元年(1555)、3月2日に徳淵を出港した市木丸は7月2日に帰国したという。また、徳淵の町衆であった「かさ屋」や「森」も商船を仕立て、都合18隻の船団が出港したともいう。(参考:「No.53 中世の八代」(熊本県HP)等)

 なお、大内氏が実施する対明の貿易船の護衛を相良氏が実施しており、徳淵の船舶には対外貿易の知見が高いとみられていたとみられる。(そして、護衛という形で大内氏の勘合貿易に参加し儲けていたこともわかる)
 積極的に対外交易を行っていた相良氏の元で徳淵(そして八代)は重要港湾として相当に繁栄していた模様である。

4 佐々氏時代
 相良氏は島津家と盟を結び、阿蘇氏などと戦う。当主相良頼房(wiki、義陽の子の方)は秀吉の九州征伐においても島津家に従うが、秀吉本隊が八代に至り降伏。人吉を安堵される。この際、八代の秀吉の元にフロイスらの宣教師が訪れており、フロイスは八代が繁栄していることを記録している。秀吉も徳淵津の繁栄をその目で見、後の直轄化に繋がるのだろう。
 肥後は佐々成政の領国となるが、国人たちが成政の統治に反対し「肥後国人一揆」が勃発。結果、肥後の国人は(中立含め)多くが処罰され、結果、肥後南半国は小西行長の領国となる。

5 小西氏時代
 肥後南半分を領した小西行長は本拠を宇土におく。
 八代においてはかつての相良氏等の本城、古麓城を廃し「麦島城」(城メモ)を築く。水軍の運用と徳淵津、栴檀津を意識した、「港城」といっていい作りであった。(城の詳細は当該項目にて)
 一方、徳淵津は秀吉の直轄地とされ、活発に実施された南蛮貿易、琉球貿易の拠点となった。

6 加藤氏時代
 小西行長は関ヶ原の合戦で西軍の主力となり敗れる。
 その後、肥後一国を領したのは肥後の北半分を領していた加藤清正である。清正も引き続き麦島城を地域の中心とした。清正死後に熊本藩主となった加藤忠広は慶長17年(1612)に加藤正方(wiki)を城代とした。
 元和元年(1615)に「元和の一国一城令」が令されたが、麦島城は例外として廃城を免れた。忠広は佐敷城や宇土城などの要衝よりもこの麦島城を選んで存続を願っており、重要視されていたと考えられる。
 しかし元和5年(1619)、麦島城は地震で倒壊してしまう。
 一国一城の例外は引き続き認められたことから、正方は徳淵津の北に八代城(松江城)を築城。この際、前川堤や萩原堤が築かれ、「前川」が誕生した。
 前川は球磨川と徳淵津を結ぶ川で、船舶の係留場所も兼ねていた。現在の前川(=新川)より北側を通っていた。前出の現在の地形図において、周辺と違う曲がった道路となっているのが旧・前川流路である。
 元和8年(1622)には徳淵津の大規模な整備が行われた。石段や石垣などにより船着場や荷上場などが整備されており、海外交易には使われなくなったものの、引き続き重要な交易港湾であった。

7 細川氏時代
 加藤忠広は寛永9年(1632)改易となる。理由は現在でも諸説あり、結論は出ていない。
 その後に肥後一国に入ったのは小倉から移動した細川氏である。藩主の忠利が熊本に入り、八代にはその父、細川三斎忠興が入った。
 三斎が実施した大工事が「新川」(現・前川)の掘削である。新川の掘削で球磨川から物資を運ぶ舟筏交通は便を増した。しかし新川ができたことで新川と前川が合流する徳淵津付近が浅くなり、城下を守る前川堤が球磨川増水時に危なくなったことから、新川入口を石堤でせき止め、越水した水のみが流れるようにした。三斎死後の八代には、細川氏最高の家老である松井氏が入った。松井督之は石堤に切り口を作り、その機能を残しつつも船筏が通行できるようにした。
 細川氏(松井氏)の統治下でも徳淵津は重要港湾として、国内各地との交易に用いられてた。一方で藩による積極的な干拓により海岸線はどんどんと西に進んでいき、また球磨川による土砂の堆積も進み、徳淵津を含む周辺の地形は変わっていった。

8 徳淵津の終焉
 徳淵津は江戸時代を通じてだんだんと土砂が堆積し、船舶の利用に支障をきたすようになっていた。
 そのため松井氏はより下流にあらたに「蛇籠港」を建設。明治期を通じ、物流拠点として栄えた。これにより中世より海外交易の拠点として知られた徳淵津はその地位を失い、前川(かつての新川)の流路上に残る一史跡となった。
 その後、昭和になるとセメント工場をはじめとする大規模な工場の建設が始まり、交易拠点はさらに西方(現在の八代内港)へ移動。蛇籠港は漁港となり現在に至っている。

9 個人的感想
 戦国時代というと、さも全ての実力者たちが兵を揃え覇を競い、戦乱の世を武力で統一することを目指し、そしてトーナメント戦を勝ち残るように他の者を全て従えた者が勝者となるような世界を思い浮かべがちである。
 結果として勝者となった秀吉や家康はそうであったろう。しかし、従った側の大名たちすべてが、戦乱の世を兵力で制覇することを目指していたわけではけっしてないはずである。
 その夢の一つが詰まっているのがこの徳淵津。
 銀山を元手に大陸との交易を成功させ、その富や名誉を手に入れ、大内や大友を向こうに回しても見事に立ち回っていたように見える相良氏。
 領国としては肥後の南半分(以下)程度の小大名であっても、十分に成功していた大名と言えるのではないかな、とも思います。彼らの目指した「成功」は、武力での拡大だけではなかったはずだから。

河童渡来の地
徳淵津跡に建つ「河童渡来の碑」(2019/1/4)
徳淵津跡近くにいた河童。夜中知らずに見たら怖そう(2019/1/4)

 ここまで見た通り、大陸との交易の地であった徳淵。
 この地には中国から河童が泳いで渡ってきたという伝説もある。
 中国から渡来してきた球磨川に住み着いた河童が九千匹にもなり、その頭領は「九千坊」と呼ばれたという。時代は仁徳天皇の時代だったり加藤清正に懲らしめられ有馬家に助けられたりと細部はまちまち。


参考文献
※1 「アジアの中の戦国大名」 21-23頁 (鹿毛敏夫、吉川弘文館、2015)

外部リンク
No.53 中世の八代」(熊本県公式観光サイト)
球磨川下流の土木治水史」(国土交通省・八代河川国道事務所内)

内部リンク
麦島城」(城メモ)