くま城戦軍研 ―熊代城砦戦国軍事研究所

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資料室

稗(ヒエ)

穎果を食用
イネ目イネ科ヒエ属

1 概要
 日本で栽培化された伝統的穀物で、「日本最古の雑穀」とも呼ばれる。英名も「Japanese barnyard millet」。
 「冷え」から名づけられたとされるほど低温に強い作物で、成育が早い上に長期保存にも向くことから冷害等の不作の際に多くの人を救った。乾燥にも強い。一方で、ヒエの原種「イヌビエ」は稲・麦作において最強の敵といえる雑草であったことや、脱穀や精白に労力を要すること、またその食感などから嫌われることも多く、その字が示す通り「卑しい穀物」として、売り物にならない穀物とされ不当に貶められてきた歴史もある。
 稲など主要穀物が育てられない北方や山間部では近年まで重用されていた。またアイヌにとっても主要な作物であり(《ピヤパ》)、最も神聖な穀物とされ、特に酒《トノト》の原料として古来から重視された。
 また、近年は健康食品として価値が見直されはじめ、前述の食用に至る手間から却って高級食材ともなっている。

2 戦国前略史
 日本で栽培化されたとみられ、主要な穀物の一つとして日本中で栽培された。
・縄文時代~弥生時代
 野生種「イヌビエ」を元に選抜分化されていったとみられ、古くから栽培が行われていたと考えられる。特に関東以北では積極的に栽培された。一方、稲作が広まる過程では水田でも畑でも育つイヌビエは最悪の雑草であったともされており、その駆除に弥生人たちは苦労したと思われる。
・奈良時代~鎌倉時代
 日本書紀では「五穀」の一つとして重視されていた。寒冷地でも山間部でも痩せた土地でも育つ特性から広く利用されていたと考えられる。
 一方、平安時代の「和名類聚抄」(資料集)では「稗」、和名「比衣」と記載されている。
 字に「卑しい」が含まれ嫌われ者の一面が見えてきている。解説も「草に似た穀」という扱い。一方、「ひえ」という名前も確認できる。「冷え」からつけられたと考えられており、寒冷地での有用性は認識されていたのだろう。
 しかし穀物を「炊く」食べ方が主流になっていく中、炊いてもぱさぱさで旨味に欠け、しかも食べられるようになるまでの労力が大きい稗の食品としての評価はさらに下がっていった。
・室町時代
 米の調理法として「鍋で炊く」が定着していく中で、米に混ぜて炊くという食べ方も定着していったが、ぱさぱさ感が嫌われたのも相変わらずか。特に「冷めるとまずい」という見られ方は古くからされていた。
・北海道の状況
 北海道においても縄文時代には栽培されていた。粟と並んで北海道での主要な作物だったとみられ、擦文文化時代でも継続して栽培されていた。アイヌ文化成立時にはすでに北海道には稗を栽培する文化が広く根付いていたはず。
 アイヌ語では《ピヤパ》、最も神聖な穀物であったとされる。
 穂ごと収穫して貯蔵し、食べる際に撞いて脱穀していた。
 米のように炊いて食べたり、粥として野菜や肉と煮込んで食べる。粉末にして団子《シト》として食したり、醸造して酒《トノト》も作る。特にトノトは、ピヤパから作るものが最も上等品とされていたようである。

3 戦国時代
 戦国以前と変わらず、主要な穀物に劣るものと認識されながらも、その適応力の強さから広く栽培され利用されていたと考えられる。一方で商取引などにはあまりその名が見えないことから、私見ながら、農村における自家消費が中心ではなかったかと推定する。
 寒冷地や山間部においては、米を食べるような階級でも雑穀を混ぜて食していたようであり、稗も混ぜ物として用いられていたはずである。
 特に経済が大発展した戦国時代には全国的に流通が強化され、地域によっては農民の税も銭納となる地域も出てくる。私見であるが、栽培作物の種類が増え農民にとって選択肢が増えていくなか、救荒作物として有用ながらも商品価値は低い稗は、この頃から作付け選択肢として魅力を失っていっていると推定し、選択肢が少ないような土地で育てられていたものと考える。

4 戦国後略史
・江戸時代
 状況は戦国時代と変わらない。商品価値は低いながらも農村で栽培され、利用されていたとみられる。特に、米が作れない寒冷地や水田を作れない山間部においては、蕎麦や粟に並ぶ重要な食品であった。税の銭納が進む中、商品価値の低い稗などを中心とする農家は苦しんだという記録も多く残る。
 江戸時代後期、下野国に住んでいた頃の二宮尊徳(wiki)は、夏にナスの味の異変から冷害の危険性を察知し、寒さに強く発育も早い稗を植えさせ周囲の飢饉を防いだといわれる。
 また、精米がぜいたく品ながらも一般にも出回るようになり、都市部においては白米のみを食することによるビタミン不足から脚気が多発した(江戸患い)が、稗や粟、麦を米に混ぜて食していた農村においては発生しなかった。
・明治時代~昭和期
 明治・大正に至るまで、寒冷地や山間部などの農村では細々と稗が作られ消費されていたが、米の品種改良が進み寒冷地でも作られ始めるとともに、科学知識の発展や食文化の変化により穀物のみならず野菜も食されるようになっていくと、稗の優位性は薄れる。
 人間の食料としてはほぼ作られず、「小鳥の餌」として利用されるように。
・現代
 栄養価の高さから雑穀が再注目されるようになるなか、特に稗は食物繊維に優れ、米と混ぜて炊けることからダイエット食などとしても注目される。また、稲用の農機がそのままつかえる(田植え機、コンバインなど)ことからも価値が見直されつつある。小鳥の餌としての需要も相変わらず。

5 栽培
 元のイヌビエは最強の雑草として弥生人を苦しめたほど、生命力の強い穀物。 
 穀物の中では特に寒さに強い。乾燥にも強い、というか乾湿への適応幅がとても広く、水田でも畑でも栽培できる。また、イネ科としては広く根を張るために痩せた土地でも実をつける。発育も早い。
・栽培方法
 畑に種を直播、または育苗し田や畑に植える。
 種を植えてからは条件が良ければ三か月ほどで出穂、一ヵ月ほどで実が熟して収穫できるようになる。
・栽培地域
 北海道などの寒冷地でも栽培できる。
 他の穀物が育てずらい土地では主要穀物の座を長くキープしていた。
・栽培注意事項
 土地の栄養価がありすぎると、集めすぎて熟する前に穂が倒伏してしまうことも。鳥類による食害が多い、特に雀に狙われやすい。(やっぱり小鳥の餌)

6 食品特徴
 穎果を脱穀して食用とする。茎や葉は杭に縛り付けるなどして乾燥させ、牛馬の飼料とする。(ひえしま)
 穎果が特に丈夫に包まれていることが特徴で、脱穀には古くから工夫が凝らされてきた。他の穀物のように単純に乾燥させ脱穀する「白乾かし法」では、中身も砕いてしまい歩止まりが悪い。そのため、水浸し蒸した後に脱穀する「黒蒸し法」(バーボイルド法)が開発された。実が灰色で色味が悪いが、歩止まりが高く栄養価も高まる。後に水浸せずに蒸し脱穀する「白蒸し法」も生まれる。色味はよくなり、脱穀の過程も短くなるものの歩止まりや栄養は黒蒸し法に劣る。
 粒のまま穀物として食べるほか、製粉して利用する。
・栄養価
 穀物としては食物繊維が豊富。一方でたんぱく質や脂質を多く含み、主食として十分な栄養を持っている。亜鉛、鉄、マグネシウムなどのミネラルやB2などビタミンも豊富。
 アレルギーも麦などに比べて少なくその点でも利用される。

7 派生種
 インドで主食となる「インドヒエ(シコクビエ)」、アフリカ南部で主食となる「トウジンビエ」は良く似ているが別の種である。

8 文化
・しとぎ
 岩手県には、製粉して練ったものを囲炉裏の灰に埋めて焼いてたべる「しとぎ」(ひえしとぎ)という調理法が伝わっている。
・酒造
 アイヌの酒《トノト》の原料となる。
 石川県にも稗を醸造する米が伝わる。古くは、もっと多くの地域で稗酒が作られ、地方で消費されていたのではないかと考える。

9 戦国活用メモ
 現代人が米に稗や粟をわざわざ混ぜて食べていると知れば戦国時代の人々は驚くだろう。
 二宮尊徳の逸話を出すまでもなく、救荒作物としては特に重要である一方、商品価値の低さと脱穀の重労働が問題となる穀物である。
 また、北方への進出を目指す場合には重要な作物となる。特に北海道や青森県などでは、米や麦の品種改良が進むまでは粟と並び貴重な食料となりうる。
 灌漑施設を造れず、水田が作れない山間部でも重要な食料となるだろう。


外部リンク
二宮尊徳 – Wikipedia
アイヌ民族博物館(ヒエの伝承)
東大和の歴史(稗と粟が主食だった)

内部リンク
 資料集「和名類聚抄