くま城戦軍研 ―熊代城砦戦国軍事研究所

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戦国医師名鑑

戦国時代に活動していた医師の名鑑

・田代三喜(1465~1544)
 日本医学中興の祖。武蔵国越生の生まれ。鎌倉・妙心寺の僧であった。医学を志し明に留学、明に渡り、僧・月湖に「当流医学」を学んだ。帰国後は関東において活動、足利や古河で医療に従事した。曲直瀬道三や永田徳本など多くの医師に当流医学を教え、新たな医学の発展の礎となった。
・曲直瀬道三(1507~1594)
 後世派を世に広め、学問としての医術を中興した「医聖」。はじめは相国寺、1528年~1546年は足利学校で僧として学ぶが、そこで医術を志す。金・元時代の医学を学び「当流」を確立していた田代三喜に下野国赤見で出会い、その弟子となる。以後は実証的な医学を追求。京都に医師養成所の「啓迪院」を建て、千人近い門人を育てている。
・曲直瀬玄朔(1549~1632)
 伯父の道三の弟子となり、1581年にその孫娘を娶り曲直瀬家を継ぐ。後には先代に劣らぬ名医として活躍。特に正親町天皇の卒中時の手当てで名をあげ、曲直瀬流・今大路家が医術の主流となる流れを築き上げる。しかしその後、豊臣秀次と懇意であったことから失脚。後には許され後陽成天皇などを診察もしているが、この事件をきっかけに曲直瀬流の医師の中心は施薬院全宗へと統一されていく。
・施薬院全宗(1526~1600)
 医師の名家中の名家である丹波家の出だが、比叡山で僧侶として学んでいる。後に信長による比叡山焼き討ちの後に曲直瀬道三に弟子入りし、日本を代表する名医となる。延暦寺焼き討ちの生き残り、正覚寺豪盛と協力し延暦寺の再建にも尽力している。

・半井明親(初代驢庵)(?~1547)
 なからい。明に渡り医学を学び、当時の皇帝・正徳帝を治療したともされる名医。治療の褒美として正徳帝から驢馬を2頭と硯を下賜された。その驢馬の一頭を帰国後朝廷に献じ、明の官衣の着用と驢馬の騎乗を許されたことから驢庵を名乗る。以後の半井家当主は代々「驢庵」を名乗る。
・半井明英(?~?)
 明にて医学を学び、、明親の子。正三位、宮内少輔兼修理大夫。1540年に明に渡り、医学を修めた。1548~1557頃に活躍したが、以後は弟の活躍が目立つ。和気清麻呂から伝わる医書、「医心正伝」を曲直瀬道三に伝えたとされるが史実としては怪しい。
・半井瑞策(2代驢庵)(1522~1596)
 明親の子、明英の弟。半井家の当主で京を中心に活動。当代医療の第一人者であり、その名声は広く知れ渡っている。朝廷に大きなパイプを持っており、多くの公家を診察した。皇后を診察した功績で正親町天皇から「医心方」を授かったとされる。
・半井宗洙(?~1586)
 明親の娘婿。堺で活動した連歌師・牡丹花肖伯の息子で、明親の娘・菊芳と結婚。堺に住み「薬師」として活動。堺半井家中興の祖とされる。堺の豪商・津田宗達と親しく、茶会に参加しているのが記録に残る。

・竹田定加(?~1600)
 明に渡り医術を修めた竹田昭慶の子孫。当代医療の第一人者、定珪の跡を継いだ。京に拠点を置き、父の代から引き続きの人脈を持っていた。後には秀吉の番医となるなど時代を代表する名医として知られる。
・坂浄忠(1511~1565)
 朝廷に仕えた医師。侍従、宮内卿法印。正親町天皇に薬を献じている。また、足利義昭を治療している。医書「家秘小雙紙」を編纂した。
・板坂宗商(?~?)
 足利将軍家の侍医の一人。南禅寺東禅院にて、本草綱目(薬草学)を教えていた、日本屈指の薬草学の権威。後に足利義輝の死後に還俗して武田家に仕え、信玄の最期まで診察。最後は肥後にて加藤清正に仕えている。
・南条宗鑑(?~?)
 一鴎軒。婦人科医の権威。伯耆で生まれ、20歳頃に京に上り医学を学ぶ。一時帰郷するも、再び京に上り活動した。天文15年(1546)に、日本最古の婦人科専門書とされる「撰聚婦人方」(宗鑑婦人方とも)を著している。

(地方)
・永田徳本(1513~1630)
 「十六文先生」の逸話で知られる、謎多い無欲の名医。出羽(鹿島とも)で修験道を学んだ後に医学を志し、田代三喜に後生派を学んだ。武田信虎に招かれ甲斐に住むが、信虎追放後は諏訪で活動している。貧しい人にも低額で治療を施したなど多くの伝説が残るが、その実像には謎が多い。
・三段崎安指(三崎玉雲軒)(?~?)
 明に渡り医学を学び越前一乗谷で活躍した谷野一栢の弟子でその跡を継ぐ。一栢は1536年に明の医書、「勿聴子俗解八十一難経」を改訂し出版した。安指は武士の出だったが一栢に弟子入りし、医家の三崎家を興す。子孫は代々越前藩で活動した。
・大月景秀(?~1574)
 朝倉家に仕える薬師。万金丹を開発する。武家としても朝倉家が滅亡するまで仕えた。その後には薬師一本で独立、富を築いた。
・久志本常辰(1509~1590)
 伊勢外宮権禰宜、平安時代から伊勢神宮に仕える名家であり、古来より伝わる医術を修め、織田家に仕える。「奥義集」「家伝通外法」を著し、久志本流医術を確立。伊勢神宮の遷宮に際して活躍。
・久志本常興(1532~1598)
 常辰の子。父と共に織田家に仕える。
・田村長傳(安栖)(?~1591)
 早雲以来、代々の北条家に仕える医師。代々、田村安栖軒を名乗っている。
 豊臣家に敗れた北条氏政・氏照は田村家で自刃したという伝承も残る。その後は徳川家に仕え、以後、田村家は代々幕府に仕えることとなる。
・湯浅等雲軒(?~?)
 若狭武田氏に仕えた金創医。越中に渡り医書を書写し持ち帰った。
・玉木吉保(1552~1633)
 毛利家に仕え、武将としても医師としても知られた人物。
 大内家、尼子家などとの戦いや織田家との戦いに参戦。天正年間に京に上り、曲直瀬流の医術を学んだ。その後帰参し、文禄の役では朝鮮にも出兵している。
 関ヶ原の後は医術に専念し、複数の医術書を残している。

(眼科医)
・東忠助(?~?)
 詳細不明。日本眼科史上に残る眼科書「眼療穗住(ホスミ)流秘傳」「東忠助眼療秘傳」を永祿元年 (1558)に著している。
・内堀道春(?~?)
 堺の眼科医。猿楽師、北長能の父。

(獣医)
・桑島仲綱(?~?)
 平安時代から続く馬医の流派、「桑島流(仲国流)」中興の祖。人物としての詳細は不明だが、伊達家に仕えたとされる。天文20年(1551)に記した馬医書「馬医醍醐」十二巻は馬医書の金字塔。子孫も徳川幕府の馬医の地位に就く。

(鍼医)
・茨木二介元行(?~?)
 摂津国茨木に住んでいた鍼医。武士でもあるという。鍼の「今新流」の開祖。
 永禄十一年(1568)、鍼立(鍼医)がしておくべき知識をまとめた「針聞書」を記す。鍼は奈良時代には医術として重視されていたが、現在の日本ではこの「針聞書」が現存する最古の鍼治療の教科書である。


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