くま城戦軍研 ―熊代城砦戦国軍事研究所

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戦国画家名鑑

<狩野派>
・狩野元信(1476 ~1559)
 絵の天下者、狩野家の礎。狩野正信の子、狩野派2代目。父の画風を学び漢画、水墨画を基礎としながらも土佐派の大和絵の手法を取り入れた狩野流を確立した。自らも不世出の画家であるが、それ以上に大きな功績は「狩野派工房」の確立。当時の日本で人気があった中国水墨画の画風を研究し整理、和漢の技を併せ持った絵を量産できる体制を築き上げたことで、狩野派は不動の位置を確立、以後400年にわたり繁栄する。
 1545年に法眼の地位を得、京都の工房にて「狩野派」作品を量産する。
・狩野秀頼(?~?)
 元信の次男、乗真秀頼(所説あり)。1569年(永禄12年)には活動を確認。仏絵師の本郷家の養子に入る。狩野本家の画風とは違う、大和絵の影響を受けた作品を残している。
・狩野松栄(1519~1592)
 元信の三男、狩野派を継ぐ。地味ながらも温和で柔軟とされる画風が示す通り、父である狩野派の原点・元信、子である世紀の天才・永徳に比べると堅実な人物。常識的な人物であり、画家としては父や子ほどの名声を残せなかったものの、狩野派の舵取りをしっかりと取り、工房を発展させ後の世の繁栄の礎を築く。子の永徳の才能に気づいてからはそのサポートに回った。
・狩野永徳(1543~1590)
 日本史上最高の画家の一人、不世出の天才。日本最大の画家集団、狩野派の中でも圧倒的な存在。松栄の長男で、若くから父を手伝いその才能を発揮。大作から精密描写までありとあらゆる絵を描いた。あまり絵を描くのが好きすぎて、若くして絶頂の中で過労死してしまう。
・狩野宗秀(1551~1601)
 松栄の次男、永徳の弟。20歳台から大作に参加し始め、多くの絵を残している。大作の際には兄の永徳や甥の光信の補佐に回ることが多い。
・狩野吉信(1552~1640)
 永徳の子。剃髪後は昌庵。光信をはじめとする他の永徳後継者に比べると地味な存在であるが、内裏御用絵師として活躍している。「職人絵尽屏風」(川越市喜多院蔵)は初期浮世絵として現存する数少ない例である。
・狩野光信(1565~1604)
 永徳の子。右京進、子の貞信と区別するため「古右京」とも言われる。父に引き続き秀吉に仕え名護屋城をはじめ各地で絵を描き、引き続き江戸幕府にも仕えた。教科書などでよく見る「豊臣秀吉像」は彼の作品。
 父と違う穏やかな作風は当時の権力者たちに嫌われたらしく、当時の評価はけして高くなかった模様

・前島宗祐(?~?)
 狩野派から離れ、後北条氏と関わり関東で活躍した「小田原狩野派」の代表的作家。元信の直弟子、その教えをよく守った画風であり、狩野派の技術をいち早く東国に伝える原動力となった人物。元信の模倣から、後にはより謹直な画風へと変化していく。
・木村永光(?~?)
 浅井長政に仕える武士であったが、狩野元信に学び画家としても一流の腕を持っていた。水墨画の新しい画風を追求した「牧牛図」などが残る。浅井家滅亡後は秀吉の近侍となる。本人は作画しつつも武士として人生を全うしたとみられるが、子の光頼は狩野永徳に弟子入り、その才能を認められ養子となり、狩野山楽の号で時代を代表する画家となる。

<土佐派>
・土佐光茂(1496~?)
 土佐光信の子。将軍家に仕え、1523年には光信の跡を継ぎ絵所預となる。大和絵の大家・土佐派の正統な跡取りであるが義兄の狩野元信の影響を強く受け、和漢交わる鮮やかな画風を身に着ける。画家として実力も名声も持っていたが、1569年に息子の光元を戦場で失い、失意の元に歴史から消える。
・土佐光元(1530~1569(戦死))
 土佐光茂の子。「紫式部石山参詣図」を残し、父に似た画風を習得していたとみられるものの、後半生を武将として生きたために作品数は少ない。秀吉の但馬攻めに参戦し戦死。
・土佐光吉(1539~1613)
 光茂の弟子、大和絵の歴史を繋いだ目立たぬ大家。史実では光元の死後に光茂の跡を継いだ。土佐家らしく源氏物語をはじめ古典や有職故実をもとにした多くの作品を残し、伝統を重んじつつもそこに留まらぬ新たな大和絵の世界を切り拓く。しかし桃山時代以降は派手な大作を好んだ時の権力者達に重んじられず、地味な存在であった。

<仏画・啓派>
・芝琳賢(?~?)
 俗名は有勝。南都絵所三座の一つ、興福寺に属する芝座の代表的画僧。強烈な色彩を持つ曼荼羅などの絵図を得意とした。1536年に社寺縁起の名作「東大寺縁起絵巻」の作成を為したと考えられるが詳細な来歴などは不明。
・啓孫(?~?)
 仏画の名匠、祥啓の弟子。祥啓派閥の作品は啓派としてひとまとめに語られることが多いために個人の証跡は謎が多いが、多数の仏画を成した巨匠であることには間違いない。特に啓孫は独自の印章も多く残され、法眼の地位を得ていることもあり、啓派でも一大画家であったと考えられる。師の祥啓と同様、京都・相国寺をその拠点とした可能性が高い。
・式部輝忠(?~?)
 祥啓に学んだ仏教系水墨画家だが、狩野元信または前島宗祐の影響を受け、仏教絵を越え洒脱さを感じさせる新たな画風を切り拓いていく。名作が多く残る割に正体は不明。賛辞から、今川家と深い関係があったとみられる。

<水墨画・雪舟派>
・長谷川宗清(?~?)
七尾の染物屋かねて絵仏師。長谷川等伯の養父。雪舟の弟子、等春から絵を学び、七尾において本業の染物屋で大成しつつも仏絵を描き残していた。
・長谷川等伯(1539~1610)
 七尾生まれ。時代を代表する名画家、幽玄。若くから養父の宗清から絵を学び、宗教絵を中心に作成。若年時から仏絵に非凡な才能を発揮していた。
 はじめは朝倉氏に仕えていた曽我紹祥に絵を学んだともいう。1571年に上洛、狩野松栄に絵を学ぶも狩野派とは後に対立、雪舟の正統な後継者として幽玄な名作を生み出していく。

・雪村周継(1504~1589)
 謎の水墨画家。雪舟の弟子ながら、別物の画風を極めた異風の水墨画家。数多く残る名作の割に、その人生には謎の部分が多い。40代で蘆名家に伺候、50代には小田原や鎌倉を訪れ、晩年は三春にて創作を続けた。
・弓削等薩(1516~?)
 大隅国出身の絵師。薩摩に伝わった雪舟派の継承者であり、水墨画を残している。明に渡ったとされているが詳細は不明な人物
・雲谷等顔(1547~1618)
 俗名は原直治。肥前国籾岳城主の原氏に仕えるが主家滅亡後、京に上り画家となる。狩野松栄に師事、狩野姓を許されるほどの腕前を見せる。後に毛利輝元に仕え、雪舟の旧居雲谷庵に住み、雪舟の正統な後継者を任じ水墨画の大作を為す。後に毛利家お抱え絵師となる雲谷派の祖となった。
・甫雪等禅(?~?)
 肥前国松浦の出身。松浦氏とされるが詳細は不明。雪舟の高弟で、師の作風に近い水墨画を残しており評価は高いが、本人については謎が多い。東福寺の僧だったともされる。

・海北友松(1533~1615)
 近江生まれ。時代を代表する名画家、放胆。幼くして出家、東禅寺で絵を学んだとされる。1573年に海北家が滅びた際、還俗して家の再興を目指すも秀吉に絵の才能を認められ、武士の道を断念し画業に専念、独自の画風を築き放胆な名作を生み出していく。

<水墨画・曽我派>
・曽我紹仙(?~?)
 越前生まれの水墨画家。兵部墨渓を始祖とし朝倉家に仕え、「曽我派」として花咲く一門。墨渓の子・夫泉宗丈の次代とされる。「曽我蛇足」が宗丈ともいうが、「曽我蛇足」という名は曽我派の世襲で代々名乗っていたという説もあり詳細は不明。(後述の直庵が「蛇足六世」を名乗っている。墨渓、宗丈ときて紹仙が三代目とすると辻褄はあう)
 天文年間には京都でも活動がみられる。「一休宗純像」が名高い。
・曽我宗誉(?~?)
 曽我派四代目という。永禄5年(1562)に朝倉義景が一乗谷で催した和歌の催し「曲水宴」に参加し、歌を残している。
・曽我紹祥(?~?)
 宗誉の子という。花鳥画を残している。長谷川等伯の最初の師匠とも。
 等伯が京に上ったのが元亀2年(1571)、朝倉氏が滅びたのが天正元年(1573)であり、この頃まで一乗谷で活動していたのだろう。
 直庵の活動を見ると堺に移った可能性もあるが詳細は不明。
・曽我直庵(?~慶長年間)
 時代を代表する名画家、豪快。曽我派中興の祖。「蛇足六世」として堺で活動し、気迫あふれる動物画など多数の名作を残している。豊臣秀頼が北野天満宮に奉納した絵馬の作者であり、この時代の活躍は確かである。
 紹祥の子という説もある。直庵が堺で活動を開始する時期を考えると、パトロンであった朝倉氏の滅亡後に越前を離れ堺で再興した可能性もあるか。
 その後、曽我派は一時的に途絶えたとされるが、江戸時代の奇想の水墨画家・曽我蕭白は曽我派の後継を自称し、「十代蛇足」とも名乗っている。

<地方>
・郷目貞繁(1497~1577)
 寒河江で創作に励む武人画家、水墨画を得意とした。寒河江氏に仕えたが伊達稙宗が1524年に最上家を攻略した際に捕虜になり、その後は京に上り絵を学んでいた。後に寒河江に戻り、多くの作品を残した。
・山田道安(順貞(?~1573))
 順貞、順清、順知の三代が「道安」を名乗っている。活動時期も近く、多くの作品を残しているがいずれの作品かは不明。順貞は筒井順慶の叔父で山田城城主。雪舟風の山水画を描いていたが、後に豪胆な水墨画となる。彫刻にも優れ、松永久秀により東大寺大仏殿が損壊した際には、その腕を活かし再建に貢献したという。


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