くま城戦軍研 ―熊代城砦戦国軍事研究所

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アスパラガス

茎を食用 ・葉も茎と一緒に食べてる。
キジカクシ目キジカクシ科クサスギカズラ属

1 概要
 柔らかい茎部を食用とする。
 ヨーロッパでは遥か昔、ローマ時代から栽培され、「野菜の女王」と呼ばれる有用な作物。日本への導入は遅かったものの、昭和初期には日本産品が世界で戦える作物の一つとなった。
 北海道岩内町の農学者「アスパラガスの父」こと下田喜久三が、郷里を救うため数多くの野菜の中から選び出し、品種改良を成し遂げ、現代では北海道を代表する野菜の一つとして定着した。彼の人生を賭けた情熱的な研究と尽力が無ければ、この野菜は日本においてここまで発展しなかっただろう。現代でもマイナー野菜の一つだった可能性すらある。
 育成法としては、土をかぶせるなどして日光に当てずに育てる「ホワイトアスパラ」と日光に当てて育てる「グリーンアスパラ」に大別される。戦前は欧米への輸出用にホワイトアスパラ缶詰が多く生産されたが、現代日本ではグリーンアスパラが主流となっている。

2 日本伝来前略史
 原産はヨーロッパ地中海沿岸か、ウクライナなどと考えられている。
・古代
 元は山菜として収穫していたが、ローマ時代にはギリシャなどで栽培がはじまっている。プリニウス「博物誌」にも栽培法が記されている。古代エジプトなどでも食されていた。
・中世
 引き続きヨーロッパで広く愛されていき、春の訪れを告げる野菜として「野菜の女王」とも称される。人気が出る一方で、その栽培の手間から、一般人には手の届かない高価な野菜となっていたようでもある。

3 戦国時代
 引き続き、ヨーロッパでは広く栽培され、高級な野菜として食されていたと考えられる。

4 日本伝来後略史
・江戸時代
 オランダにより伝来するが、食品としては定着せず、観葉植物として育てられた。
・ヨーロッパの状況
 ヨーロッパでは引き続き高級野菜として愛されていく。
 アメリカ大陸へは移民が持ち込み、気候が適していたことから広く栽培されるようになり、現在でも米国でメジャーな野菜の一つとなっている。
 フランスの王、ルイ14世はアスパラガスを愛しており、季節外れの時期にも食べられるように栽培させていた。
 ホワイトアスパラの開発時期については諸説あるが、一説には「16世紀のイタリアで、飢えた民が地面を掘っていたところ、地中から偶然に発見した」とされており、この前後から栽培が開始されたものと考えられる。ホワイトアスパラの開発後は、欧州での消費(特に上流階級)はホワイトアスパラが中心となっていく。

・日本での栽培
 北海道岩内町の農学者、下田喜久三が導入の原動力となった。
 下田は大正2年に後志を襲った冷害をきっかけに、冷害に強い野菜の導入を志す。大正5年に倶知安に土地を購入し、選別するために様々な野菜の種を取り寄せ栽培した。その中でも寒さに強く、過剰に採れても外国への売却が期待できること、そして岩内において近縁種であるホソバキジカクシが自生していることから栽培可能と期待し、アスパラガスを選択する。
 北海道に適したアスパラガスを求め多種多様なアスパラガスを世界から取り寄せ研究を重ね、大正10年にはドイツ種とアメリカ種の交配により、北海道産種となる「瑞洋」を開発。大正11年には岩内で栽培を開始し、昭和元年にはホワイトアスパラ缶詰の生産を開始した。
・昭和期(戦前)
 岩内の土壌はひび割れやすく、日光を遮断して育てるホワイトアスパラの生産には向かなかった。一方、岩内より内陸の喜茂別村(Google map)の村長・志賀勘治は、経済的苦難にあえぐ喜茂別を救うためアスパラに目をつけており、下田に協力してアスパラの生産を開始。生産は軌道に乗り、喜茂別はアスパラの名産地となり、昭和14年には缶詰工場が完成した。
 その後、アスパラの栽培は喜茂別から北海道の各地に広まり、道内各地にホワイトアスパラ缶詰工場が生まれ、国内外に販売された。国外でも北海道産ホワイトアスパラの評価は高く、特に米国で人気となった。
・昭和期(戦時、戦後)~
 戦争により対米輸出がストップするとともに、戦中は生産性の高いイモ類などが重視され、手間のかかるホワイトアスパラの生産は下火となった。
 昭和40年頃からアスパラガスが見直されはじめ、特に栄養価に勝るグリーンアスパラが食されるようになってくる。その後、現代にいたるまで、グリーンアスパラは北海道を代表する野菜の一つとして国内に流通している。

5 栽培
 元は山野に生えていた植物であり、定着後は10~15年ほどは毎年収穫できるようになるものの、定着までは手間のかかる植物であり、収穫できるには3年かかるとされる。
・栽培方法
 種を発芽させ苗を畑に植える。株を定植させた後、収穫できるようになるには三年かかるとされる。株から伸びてくる若茎を収穫する。
 春にしっかりと収穫して夏以後は茎葉を伸ばして株を育成する方法と、春の収穫を早めに切り上げて株を選抜して育て、夏・秋にも収穫する方法(立茎栽培)とがある。
・栽培地域
 冷涼な地域での栽培に向く。特に北海道は名産地である。
・栽培注意事項
 茎枯病が大敵。防止のため、冬に草が枯れた際にしっかり刈り取り処分するとよい。

6 食品特徴
 若茎を食用とする。「はかま」と呼ばれる小突起が葉。穂先は一見、葉に見えるが細分化した茎である。
 古くから利尿効果があることが知られている。
・栄養素
 グリーンアスパラはビタミンを豊富に含む緑黄色野菜である。ホワイトアスパラは優しい食感が好まれるが、栄養では(特にビタミンの面で)グリーンアスパラに大きく劣る。共通して野菜としては糖分が多め。
 特徴的な栄養素は、疲労回復に役立つとされる「アスパラギン」である。体内でアスパラギン酸に変化し、新陳代謝を高め細胞の修復を助けるという。

7 派生種
 日本にもキジカクシ、クサスギカズラなどの近縁種が自生している。特にホソバキジカクシは、岩内に自生していたことから、下田喜久三がアスパラの栽培を決心した要因の一つになったとされる。

8 その他
 日本にアスパラガスを導入した功績が下田喜久三に帰することは間違いない。が、日本の「アスパラガス発祥の地」は北海道の三か所に存在している。
 下田が最初に耐寒作物の選定を行った倶知安、最初に栽培を実施した岩内、そして商業的に成功し道内に広まるきっかけを生んだ喜茂別。
 三か所とも下田が大きな足跡を残した地であり、アスパラ日本定着に果たした役割は大きい。

9 戦国活用メモ
 何度も繰り返すように、史実での日本定着は、この作物が北海道に適しているという見極めも含め、下田喜久三という一人物の情熱的な活動が原動力となった。一方でヨーロッパでは中世の時点で(高級食材ではあるが)大発展を遂げている作物であり、戦国時代においても欧州からの入手は可能と考えられる。
 栽培の方法を知っていれば戦国日本での導入も困難ではないだろうし、後に欧米への輸出品として人気を博すこととなるホワイトアスパラの生産も、方法を知っていれば容易だろう。
 下田が歩んだような苦難はあるものの、栽培に成功すれば北海道など冷涼地域での野菜として期待できるし、史実どおりに欧米への輸出品としても量産できるかもしれない。


外部リンク
アスパラガス(wikipedia)
下田喜久三(wikipedia)

岩内町HP(アスパラガス発祥の地碑)
喜茂別観光情報(日本で初めてアスパラガス本格栽培に成功)

内部リンク
・地域情勢「岩内