くま城戦軍研 ―熊代城砦戦国軍事研究所

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岩内・共和

いわない・きょうわ
江戸時代:西蝦夷地(岩内場所)
明治時代:後志国岩内郡(後に札幌県)
現代:北海道岩内郡岩内町、共和町

本項では北海道の岩内平野、現在の北海道後志総合振興局岩内郡岩内町・共和町について記載する。

1 概要
 北海道日本海側、積丹半島の西側の根本に所在、道央でも比較的早くに発展した町である。
 岩内の語源については諸説あるものの、アイヌ語《イワウナイ》(硫黄の川。硫黄は日本語からアイヌ語に移入した)説が有力。
 共和は、三つの村が合併してできた際に、将来の発展を祈って名付けられた。
 神威岬(積丹半島先端)を越える航海は危険が大きいこともあり、岩内は日本海側の航海拠点として重要であった。古くから和人の到来が認められる地であり、アイヌ文化においても交易の場として栄えていた。また暖流の影響で緯度の割に温暖な地でもあり、農業にも適している。
 日本で初めての鉄道(茅沼炭鉱軌道(wiki)ただし、旅客営業が無くトロッコ程度だったために日本初の鉄道は新橋~横浜間とされることが多い)が通った地でもある。

2 戦国前略史
・縄文時代~続縄文時代
 「岩内東山円筒土器文化遺跡」(文化庁)からは、縄文時代前期の円筒土器に類する文化の遺物が発掘されている。北海道日本海側の遺跡としては最大級なものであり、多くの住民が暮らしていたと考えられる。その後も、縄文時代の人たちの流れを汲む続縄文時代の文明が栄えたとみられる。
・古代
 658~660年阿倍比羅夫が遠征した「後方羊蹄(シリベシ)」については諸説あるが、現在の余市であるという説もあり、そうなるとかなり早い段階(アイヌ文化の発展以前)から、後志は大和政権の勢力下にあった可能性がある。
・鎌倉時代
 平泉を逃れた源義経と弁慶は、この地から大陸に渡ったという伝説がある。海岸の「弁慶の刀掛岩」(岩内町観光ポータル)には、弁慶が岩を捻って刀を掛けたという伝説が残る。
・室町時代
 それ以前に暮らしていた人々とのつながりは明確ではないが、13世紀くらいには道央でもアイヌ文化が定着する。岩内の状況は不明だが、シャクシャインの時代には、積丹半島の沿岸が東の古平にいたるまで岩内を中心とする勢力に統一されていることを考慮すると、岩内はアイヌ文化においても比較的早くから発展していた可能性が高いものと考えられる。特に堀株川(ホリカップ川)流域は早くからアイヌが定着していたとみられ、泊周辺までを広く指す「シリフカ」というアイヌ名も残っている。
 また、岩内には康正2年(1456)には和人の往来があった。(阿倍比羅夫の伝説的な到来を別にしたとしても)早い段階から和人が訪れていたのが分かる。
・戦国時代
 歴史的史料にはその姿は見えないが、既に和人が到達していることと、江戸時代初期における後志地方での和人の発展を考えると、この頃には和人の定住者がいてもおかしくない。また、アイヌ社会でも江戸時代初期には既に地域の中心であったことを考慮すると、アイヌの人々も存在し、発展していると考えてよいであろう。漁業と農業を基盤に、それなりの集落が築かれていると考えて良いか。

3 戦国後略史
・江戸時代
 江戸時代においても西蝦夷屈指の経済力を誇り、多額の運上金を収めていた。

 慶長9年(1604)には岩内場所が創始され、松前藩の勢力下におかれる。
 寛文9年(1669)に発生したシャクシャインの乱においては、当地を根拠として積丹半島全域に勢力を誇っていたカンネクルマ(カンニシコル)は中立を保った。乱の後、シャクシャインに味方して討伐された寿都に勢力を広げるとともに鮭と米の交換レートを松前藩に認めさせている。

 主題とは離れるがこのカンネクルマという男、かなりの曲者…いや名君であるのではないか。シャクシャインの乱を無難にやりすごし、それどころか混乱を衝いて磯谷アイヌを率い利尻島を攻撃し貢物を得た可能性もある。しかも戦後はハウカセと組んで抗戦の姿勢を見せて松前藩を脅し、結果として寿都の地を得るとともに漁撈アイヌの悲願であった鮭と米の安定した交換レートを認めさせている。歴史上、シャクシャインやその協力者ほどの知名度や人気は無い人物だが、ハウカセと並んでかなりの人物ではないかと思う。

 寛永4年(1751)には岩内場所の請負人が置かれた。この年を岩内町では岩内開基の年としている。また、漢字表記「岩内」が既に成立している。
 その後は鰊の収穫により栄え、北前船の寄港地ともなっており、「千石場所」とも言われていた。その繁栄は内地にも聞こえ、岩内に出稼ぎに行く記録がみられるとともに、天保飢饉の際には内地から多数の移住者があった。
 寛政年間には弁財天が祀られ、現在の岩内神社の元となっている。
 文化6年(1809)には余市との間の街道が調査され、時期不明だが開墾された。稲穂峠越えの、現在の国道5号線に近いルートとみられる。
 弘化元年(1844)、朝日温泉が整備される。
 安政年間、岩内から西方の磯谷の街道が整備され始める。(以前は道が無く、往来は船のみだった)街道沿いの朝日温泉に人がおかれる。
 安政3年(1856)、茅沼炭鉱が発見される。米国の蒸気船と接触したことにより石炭の価値は認識され始めていた。茅沼炭鉱の人力での発掘と運搬の効率の悪さを見た外国人技師たちは、岩内港へと石炭を運ぶトロッコ軌道の設置を提言。慶応2年(1866)に測量と工事が開始された。
 安政4年(1857)、箱館奉行により「御手作場」(=官営農場)が前田の幌似と発足に出来る。水稲栽培を実施。

・明治時代以降
 明治2年、開拓使管轄下において後志国及び岩内郡制定。
 茅沼炭鉱軌道が完成。岩内港と茅沼炭鉱を結んだ日本で最初の鉄道ともいえるが、旅客営業を伴わないトロッコであったため、日本最初の鉄道とは見なされないことが多い。
 明治4年、野生のホップが発見される。
 明治15年、廃使置県、札幌県に。
 明治19年、廃県置庁、札幌本庁に。
 明治30年、岩内支庁設置
 明治33年、御鉾内町、稲穂崎町、橘町、吹上町、堀江町、三島町、鷹台町および老古美村の一部を以て岩内町成立。
 明治37年、北海道鉄道小沢駅(現JR函館本線小沢駅)開業
 明治38年、小沢駅と岩内港駅の間に「岩内馬車鉄道」(wiki)開通。北海道初、全国でも数か所しかない「水力発電所」(岩内町観光ポータル)が開設。現在でも明治期の煉瓦枠が残っている。
 明治39年、岩内港起工
       前田村、発足村成立。
 明治42年、敷島内村、野束村が合併し島野村成立。小沢村成立。
 明治42年、岩内支庁廃止、後志支庁に。
 明治45年/大正元年、岩内馬車鉄道廃止、鉄道院により鉄道「岩内軽便線」(後の国鉄岩内線(wiki))開通。
 大正11年、アスパラガスの栽培開始。詳細はリンク先にて。
 昭和29年、「岩内大火」(wiki)洞爺丸台風により被害が激化、町の8割を焼くという日本史上まれにみる大惨禍となる。
 昭和30年、岩内町と島野村合併、岩内町となり現在に至る。
       前田村、小沢村、発足村合併、共和村となる。
 昭和38年、共和村、共和町となる。
       共和町の名産物となる「らいでん西瓜」(wiki)の栽培開始。
 昭和60年、国鉄岩内線廃止

4 産業
 漁業が盛ん。江戸時代においては鰊の漁獲が多く発展の礎となっていた。江戸時代の蝦夷地においては安定した収入があった土地であり、天保飢饉の際には内地から多数の移住者があった。
 また、緯度の割には温厚な気候であるとともに良質な水源である堀株川の存在もあって、早くから農業も発展した。
 幕末には箱館奉行の元で稲作(水稲)が開始されている。
 岩内町においては、大正期には当地出身の農学者・下田喜久三が近縁種が自生していたことからアスパラガスの移入を実験。日本におけるアスパラガス発祥の地の一つとなっている。また、明治4年には野生のホップが発見(岩内町観光ポータル)され、札幌でのビール醸造開始に影響を与えたとされている。
 現在の共和町の最大の名産物は「らいでん西瓜」で、メロンやスイートコーンも有名である。

5 戦国利用メモ
 北海道日本海側において、古くから和人が進出するとともに、アイヌも大きな勢力を誇っていたと思われる。戦国時代において神威岬を越える航海の難易度が高いことを考えると、北海道進出において重要拠点の一つとなりうる。
 幕末には水稲が育てられた実績があり、岩内平野部での農業もある程度収穫が期待できるだろう。
 また、野生ホップが実用化できるならば、ビールの製造も可能である可能性がある。暖流の影響で緯度の割には温厚であり、北海道に農業を広める拠点としても適しているのではないだろうか。明治期にはアスパラガスの成功例もある。


外部リンク
・「岩内町公式HP
・「共和町公式HP
・「岩内東山円筒土器文化遺跡」(文化庁、文化遺産オンライン)
・「岩内東山円筒土器文化遺跡出土の遺物」(文化庁、文化遺産オンライン)
・「岩内町観光ポータル

内部リンク
・基礎資料「アスパラガス

改訂
 R5.9.19 共和町の記載を増やし、大幅改定