くま城戦軍研 ―熊代城砦戦国軍事研究所

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アイヌ人物名鑑(シャクシャインの乱関連)

 江戸時代、寛文9年(1669)に発生した「シャクシャインの乱」の時代の人物。それ以外の江戸時代の人物は「アイヌ人物名鑑(江戸時代全般)」

<シャクシャイン側>
(胆振)
チメンバ
(後志)
イコチマイン(イロチマイン)

<中立>
(渡島)
アイコウイン(アイツライ)
(後志)
カンネクルマ(カンニシコル)

<敵対勢力>


<シャクシャイン側>
(胆振)

・チメンバ (?~1669)
 ホロヘツ(幌別)の首長。シャクシャインの乱に際してはホロヘツを離れ、シャクシャインの軍に加わった。西蝦夷地域への伝令としてシャクシャインの蜂起を伝え、味方を募った。特にヲタスツ(ウタスツ、現・寿都町歌棄)の首長はチメンバの兄のイコチマインであり、蜂起させることに成功している。
 その後はシャクシャインと共に松前藩と戦うが、松前藩によってシャクシャイン諸共に謀殺(または処刑)された。
(参考:「アイヌ地域史資料集」(平山裕人、明石書店、2016)123頁)

(後志)

・イコチマイン(イロチマイン)(?~1669?)
 ヲタスツ(ウタスツ、現・寿都町歌棄)の首長。チメンバの兄。
 シャクシャインの使者として西蝦夷地を訪れたチメンバの説得を受け、シャクシャインの乱に呼応し蜂起した。西蝦夷地の蜂起の牽引役だったともされ、多数の和人に被害が出た余市の蜂起にも一役買っているのかもしれない。結果、日本海側を攻め上った松前藩兵に鎮圧された。
(参考:「アイヌ地域史資料集」(平山裕人、明石書店、2016)39頁)

<中立>
(渡島)

・アイコウイン(アイツライ) (?~寛文期(1669)~?)
 江戸時代の道南地区においては和人の居住地とアイヌの居住地が渾然としており、両方の統治が併存していた。アイコウインはネタナイ(現在の恵山市街地)を拠点に、北は落部までの内浦湾沿いの広い範囲を治めていた。しかし寛文10年(1670)の松前藩の記録によると、和人居住地での戸数は少なく、少なくとも海岸沿いにはあまりアイヌは居住していなかった模様。(1640年の駒ヶ岳噴火が影響している可能性はある)
 寛文9年から発生したシャクシャインの戦いにおいては、日高地方から攻めあがるシャクシャインに呼応しようとし、「松前に味方する」との口実でチャシを築いたという。
(参考:「アイヌ地域史資料集」(平山裕人、明石書店、2016)111頁)

<道央>
(後志)

・カンネクルマ(カンニシコル) (?~寛永期~?)
 関連項目:地域情勢「岩内
 岩内~古平を治めていた大酋長で、シャコタン(積丹)首長ウテメシケらを従えていた。シャクシャインの乱の際には動きが見えない(磯谷勢が利尻島に攻め込んだのに関連している可能性はある)。戦後、イシカリアイヌのハウカセと協力し強硬姿勢を取り、松前からの通詞を斬ろうともしたが止められ、最終的にハウカセらとともに松前藩に降伏した。その後、寿都までを治めており、結果としてシャクシャインの乱に同調せずに勢力を広げた形となった。
 また米と干鮭の交換レートを問題にし、固定レート制定を松前に認めさせた。経済感覚、政治能力に優れた酋長であったと言える。
(参考:「アイヌ地域史資料集」(平山裕人、明石書店、2016)頁)