ジャンル:災害(近世以降)
寛永17年(1640)に発生した北海道駒ヶ岳の大噴火と、それによって発生した津波による一連の被害。円錐型であった駒ヶ岳が現在の姿に変わるほどの山体爆発が発生、その大量の土砂が内浦湾に流れ込み大津波が発生し対岸までの大災害となった。
その降灰は奥羽にも凶作をもたらし、寛永大飢饉の引金の一つとなる。
駒ヶ岳周辺の略図、赤矢印が主に噴火の土砂等が流れた方向。
1 経緯
寛永17年6月13日(旧暦。新暦1640年7月31日)に噴火。
当時は円錐型をしていた駒ヶ岳だったが、この噴火により山頂部が崩壊。土砂は東側、南側に流れた。
東麓では大量の土砂が内浦湾に流れ込み、大津波が発生した。この土砂が形成したのが出来潤崎である。
南麓では大量の土砂が折戸川をせき止め、大沼が形成された。
灰や石の噴出は三日間続いたという。
2 影響
この津波により、昆布採りの舟百余が沈み、夷人にも多数の死者が出たという。(参考 ※1)また、対岸の有珠地区にも7.5mの大津波が襲い、700人以上の死者が出たとも。
駒ヶ岳の姿は大きく変わり、付近の地形も変化した。
また、灰は津軽海峡を越え東北地方にも降り注ぎ、寛永の大飢饉の引金の一つになったともされる。
参考資料
※1 旧砂原町史(森町HPから)
外部リンク
・「北海道駒ケ岳火山1640年噴火の山体崩壊」(1998、吉本充宏、宇井忠英)
・駒ヶ岳噴火津波(wiki)