くま城戦軍研 ―熊代城砦戦国軍事研究所

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南部藩砂原陣屋

「史跡 砂原南部藩屯所跡」の碑 (2020/8/5)

 駒ヶ岳の北麓、内浦湾に面する地。江戸時代末期の安政2年、幕府から東蝦夷地の沿岸警備を命じられた南部藩が築いた陣屋の一つ。土塁が現存しており、当時30~50人ほどが勤務したという情景を感じることができる。
関連項目:地域情勢「砂原<渡島>
(登城日:2020/8/5 それ以降に状況は変わっている可能性があります。)

Ⅰ 所在地等
  北海道茅部郡森町砂原
  国指定史跡
Ⅱ 種別・利用法
  土塁と堀による単郭の平城。陣屋として居住等に使用
Ⅲ 築城時期
  安政3年(1856)
Ⅳ 築城者
  南部藩(盛岡藩)
Ⅴ 主要な事象
  モロラン出張陣屋と共に構築。
  明治元年、他の南部藩陣屋と同様に引き払い盛岡に撤退
Ⅵ 遺構
  土塁
Ⅶ 公共交通機関アクセス
  JR函館本線砂原支線、渡島砂原駅から約1.5km(国道278号沿い)
  砂原支線の前身、渡島海岸鉄道(wiki)時代の砂原駅は陣屋の裏だったとか。

国土地理院HPを利用し作成

1 来歴
 幕末、ロシアの脅威が北海道に迫る中、安政3年(1856)に、恵山~幌別の間の警備を命じられた南部藩(南部家盛岡藩)が、モロラン陣屋(室蘭)の分屯所としヲシャマンベ陣屋とともにて築いた。以後、30名ほどの兵が駐屯した。
 明治元年(1868)、戦況の変化に伴い南部藩は蝦夷地からの撤退を決定。モロラン陣屋、箱館元陣屋などを焼き引き払うが、その際に砂原陣屋も全ての建物を破壊し撤退した。

2 構造
 単郭の平城。
 広さは、東西約37間(66.6m)、南北約33間59.4m)の方形に、周囲の土塁の高さ、約1丈(3m)。堀があったという情報もあるが、痕跡は見つけられなかった。

3 状況
 国史跡として整備されており、市街地の中に全域が残っている。
 土塁もほぼ全周に現存。内部に解説板、城址碑、忠魂碑など。
 建造物は残っていない。

道路側入口から入って振り返ったところ。右端に見えるのが上記地図にある、国道沿いの入口案内。土塁を挟んで解説板 (2020/8/5)
忠魂碑等。背後に土塁が見えている。(2020/8/5)

4 その他
 砂原神社の他に市中、神社付近、駒ヶ岳の麓に小屯所がおかれたという。

解説板
道路側から郭内に入るとすぐに解説板。(2020/8/5)

蝦夷地南部藩砂原陣屋跡(国指定史跡)
 この陣屋跡は、幕府の命により、南部藩が北辺警備のために、安政3年(1856)10月より翌1月にかけて築造したといわれている、南部藩室蘭陣屋の砂原分屯地です。
 明治元年(1868年)砂原陣屋(分屯所)内の家屋等を壊して引き上げるまで、常に約30名ほどの藩兵が駐屯していたといわれています。
 広さは、東西約37間(66.6m)、南北約33間59.4m)の方形に、周囲の土塁の高さ、約1丈(3m)と記録されています。

細かい写真など
郭内の様子。土塁は周回残っており、その外にはすぐ建造物 (2020/8/5)
西側の土塁を外から撮った図。外側の土地は造成される前はもっと低かったのではないだろうか?(2020/8/5)

個人的回想
 北海道に残る陣屋跡の中でも最も市街地に隣接している陣屋ですが、ぎりぎりまで民家が建ちつつも良く保全されており、内部は手つかずで残されています。
 なお私はJR函館本線・砂原支線の数少ないダイヤを利用して辿り着いたものの攻城後は便がなく、ここから森駅まで歩き、特急でいったん函館に戻ったのでした。森到着の時間は遅く、いかめしは食べられず。
 なお砂原全体の状況については、地域情勢「砂原<渡島>」にて。

おしろない駅
JR函館本線砂原支線、尾白内(おしろない)駅 (2020/8/6)

 城メモラー兼駅メモラーが最も絶望した駅名である。


外部リンク
「南部藩砂原陣屋跡」(森町HP)
・文化遺産オンライン「東蝦夷地南部藩陣屋跡

内部リンク
・戦国時代の地域情勢「砂原<渡島>
・城メモ「南部藩モロラン陣屋
・城メモ「南部藩ヲシャマンベ陣屋