くま城戦軍研 ―熊代城砦戦国軍事研究所

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資料室

砂原<渡島>

さわら
江戸時代:東蝦夷地(サワラ場所)
明治時代:渡島国茅部郡
現代:北海道茅部郡森町砂原

本項では、旧砂原町(現・森町の一部)について記載する。

国土地理院HP利用

1 概要
 北海道駒ヶ岳の北麓、内浦湾(噴火湾)に面して存在する町。
 地名の由来は明確ではなく、アイヌ語《サラキウシ》(鬼茅のあるところ)からの転移という説、椹(さわら)の巨木があったからという説、砂埼があったため、アイヌ語《シャラ》(広い砂州)からの転移などの説がある。
 穏やかな内浦湾に面し、海の幸に恵まれた土地。美しい円錐型の名峰(推定)駒ヶ岳を身近に眺める、古くからアイヌも和人も多数住む暮らしやすい土地であった…が、その駒ヶ岳の歴史的大噴火と山体崩落により、一時は壊滅的な被害を受けたと思われる。その後は人口も回復し、江戸時代を通じて賑わった。

2 戦国前略史
・縄文時代
 沼尻地区において、二ツ山遺跡が発見されている。尾白内には貝塚も発見されており、縄文人も多く定住していたと考えられる。
・室町時代以前
 アイヌが居住し集落を形成していたとみられるが、史跡等は残っておらず、詳細は不明である。
 一方、「庭訓往来」には北海道産の昆布が「宇賀昆布」として記載されており、名産物として認識され始めていた。
・戦国時代
 天文元年(1532)、春季にニシン漁のため、津軽半島の蟹田から権四郎という人物が2~30人の漁夫を連れて来住したというのが当地の最初の記録である。(参考・※1)この縁あってか、砂原町と蟹田町は姉妹都市であり、現在もそれぞれの合併後である森町と外ヶ浜町の間に引き継がれている。
 天文5年(1536)、権四郎が故郷の石浜稲荷の分霊を勧進し稲荷社を築いたのが現在の砂原稲荷神社(渡島砂原駅北)とされる。
 永禄年間、山中腹の岩窟に内浦三社権現が祀られる。
 元亀2年(1571)には、三十戸ほどの永住者があり、村を成していたという。(参考・※1)昆布採りを中心とする漁業が生業の中心だったと考えられる。蠣崎氏など、戦国的領主の力が及んでいたかどうかは不明である。

3 戦国後略史
・江戸時代初期
 江戸時代、蝦夷地が松前藩の管理下に置かれた後も、和人の居住地と共にアイヌの酋長を中心とするアイヌの社会が渾然として共存していた。
 砂原は平和な世で需要の増した蝦夷産作物、特に昆布の産地として知られるようになり、経済的に発展していく。
 生活が一変したのは寛永17年の駒ヶ岳大噴火と、それに伴う大津波。
 山体崩壊した駒ケ岳からの大量の土砂は、東に進み内浦湾に注ぎこみ、巨大な津波を発生させた。対岸の有珠で大被害が出たが、砂原もまた無事ではなかったと思われる。詳細は「駒ヶ岳噴火津波(1640)
 寛文9年(1669)に発生した「シャクシャインの乱」の頃には、アイヌ社会的には現在の恵山を拠点とするアイコウイン(アイツライ)が内浦湾東岸を広く支配していた。詳細は資料集当該項目にて。(参考 ※2)

・江戸時代中期~後期
 駒ケ岳はその後も数度の噴火を繰り返すが、寛永17年ほどの大噴火は発生しなかった。海産物に恵まれた平穏な海である内浦湾に面した砂原の地には再び集落が発展していく。
 松前藩は山越に関所を置きそれ以南に和人の居住を認めたが、箱館以東では「小安、戸井、尾札部、砂原、落部、野田生」が六村として発展していた。
 松前藩の統治・交易機関である「場所」もおかれた。
 特に砂原は栄えていたようで、寛政3年(1791)に東蝦夷地を旅した菅江真澄(wiki)は「蝦夷乃手布利(えぞのてぶり)」に、砂原に来て「はじめて和人の村に来て寛げたようだ」ということを記している。
 文化4年(1806)の松前藩の調査書類には、「砂原村86軒389人」とある(参考 ※1)とのこと。松前藩の記録ではアイヌは含まない可能性が高く、発展していた様子がうかがえる。また、西部の掛澗にも集落が形成されている。

・江戸時代末期
 安政2年(1856)、迫るロシアの脅威に備え、幕府は蝦夷地を再び直轄領とし、奥羽雄藩に警備を命じた。内浦湾沿岸(恵山岬~幌別)までを任されたのは南部藩(盛岡藩)で、箱館に元陣屋、室蘭に「モロラン陣屋」を置き、砂原と長万部に出張陣屋を置いた。詳細は「南部藩砂原陣屋」にて。
 安政3年に駒ヶ岳が噴火、数十名の被害者が出ている。

・明治時代以降
 箱館戦争を前に、南部藩は政情不安を見て蝦夷地から撤退。砂原陣屋も建造物をすべて焼き、撤退した。
 明治元年(1868)、榎本武揚率いる旧幕府軍は鷲ノ木に上陸。土方歳三率いる部隊は砂原~鹿部~川汲と進み箱館を目指した。箱館戦争中、砂原にも部隊を駐屯させていた。
 維新後、開拓使の出張所が戸井、森とともに砂原にも設置された。
 明治39年には砂原村と掛澗村が合併し砂原村成立。昭和2年には森と砂原を結ぶ渡島海岸鉄道(wiki)が開業。
 順調な発展を遂げる中、昭和4年(1929)に駒ヶ岳が大噴火。死者は2名と過去の噴火ほどの被害は出なかったが、復興の中で昭和6年に大雨による土石流が発生、昆布養殖施設に大打撃を与えるなど、経済に大打撃を受けた。
 昭和46年に砂原町となり、平成17年、森町と合併した。

4 産業
 古くから漁業で栄える。
 距離的には函館や松前とそう離れていないが、暖流の対馬海流の影響を受ける津軽海峡と違い内浦湾は寒帯の海であるため、海産物がまるで異なる。
 戦国時代以前の古くから昆布の産地であり、江戸時代には鱈漁も盛んとなり、現在ではホタテの名産地となっている。
 農業は、北海道では温暖な地域であり、こちらも古くから盛んであった。近年ではブルーベリーの栽培が盛んである。

砂原地区の案内地図。(2020/8月 撮影)

5 城砦
 「南部藩砂原陣屋」(城メモ)参照。

6 建造物等
 「権現山内浦神社」(神社HP)
 元は山腹の岩窟に祀られていた三神(素戔嗚尊、稲田姫命、事代主命)を祀ったもの。文化3年(1806)に現在の位置に遷移されたとあり、それ以前には山腹の岩窟に三神を祀る神社があったと思われる。
 「砂原稲荷神社」(権現山内浦神社HP内)
 天文5年(1536)創建。戦国時代においても、なんらかの社があるだろう。

7 その他
 立地条件、気象条件、恵まれた寒帯海産物と、戦国時代において既に和人が進出していた好立地。戦国時代において北海道進出する際には本拠地ともなり得る立地である。その際には、現在とはまるで違う、美しい円錐状の駒ケ岳を見ることができるだろう。その駒ヶ岳の噴火が起きるであろうことには留意したい。


参考文献
※1 「旧町(森町・砂原町)町史のダウンロード)」森町HP
※2 「アイヌ地域史資料集」(平山裕人、明石書店、2016)108~111頁

外部リンク
・「権現山内浦神社

内部リンク
・城メモ「南部藩砂原陣屋
・資料集「駒ヶ岳噴火津波(1640)