くま城戦軍研 ―熊代城砦戦国軍事研究所

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アイヌ人物名鑑(江戸時代全般)

 江戸時代全般のアイヌ人物名鑑。寛文9年(1669)に発生した「シャクシャインの乱」の時代の人物は「アイヌ人物名鑑(シャクシャインの乱関連)

目次
<道東>
(釧路)
ノイアサック
(千島)
カッコロ
<道北>
(宗谷)
チョウケン
シルメキシユ(シルメキシユエ)
(留萌)
イマウカンテ(トビラス)
コタンヒル(コンタンビル)
<道南>
(渡島)
トンクル
<道央>
(後志)
ヘナウケ


<道東>

(釧路)
・ノイアサック(?~1643~?)
 厚岸アイヌの酋長《エカシ》。
 寛永20年(1643)、オランダ東インド会社所属、M・G・フリース艦長率いるカストリクム号が厚岸に寄港した際の酋長。18日間に渡って厚岸に滞在しており、その際の記録が当時の航海記録の一部としてオランダ国立総合公文書館に残されている。
 牡蠣の収穫を生活の中心に、長を中心に秩序だった生活を送っていた。ある日、ノイアサックの娘とカストリクム号乗員に間に誤解を招く行為があったとし、長は怒り、娘を村人の前で打って懲らしめた。フリース艦長は酋長に刀と衣服を与え怒りを鎮めたという。一方、村からはフリースたちに何度かハマナスの実と牡蠣が贈られており、当時から厚岸の特産品が牡蠣であったことが分かる。
 フリースの記録によると、クスリ(=釧路)と同盟し、シラヌカ、トカチと敵対していたという。
(参考:「厚岸町の歴史物語/最古の記録」厚岸町HP
   :「マルチン・ゲルリッツエン・フリース」(wikipedia)
   :「アイヌ地域史資料集」(平山裕人、明石書店、2016)162頁)

(千島)

・カッコロ(?~1756~?)
 エトロフ(択捉)の乙名。紀州の舟が択捉島に漂着した際の記録に残る。
 紀伊国日高郡薗浦の堀川屋八左衛門(八右衛門とも)は宝暦六年(1756)、伊豆を出港した後に伊勢の沖で遭難、約三か月後にエトロフ島に流れついた。
 その時の択捉の乙名がカッコロで、松前藩からの書状を所持していた。
 カッコロは松前から得た鍋やタバコを所持しており、場所が択捉島に置かれる前から、千島のアイヌが松前藩の影響下にあったことがわかる。
 家には八畳敷きほどの熊皮があり、家宝にしていたという。
(参考:「宝暦六年紀州船エトロフ島漂流記について」

<道北>
(宗谷)

・チョウケン(1680頃?~1790前後?~?)
 トンベツ(現在の浜頓別、中頓別)の酋長。長い髭が特徴で、山丹服(蝦夷服)を来て長刀を持つ肖像が残されており、交易によってかなりの財力を持っていたとみられる。髭の長さは5,6尺もあり、長すぎて歩くときには袋に入れて首から吊るしていたという。天明4年(1784)平秩東作「東遊記」にて100歳近くと記されているとのこと。
 子のイタクマヲク、孫のシリメキシユ、ひ孫のテケパセもトンベツの酋長であった。また子のイマウカシテ(トビラス)と孫のコタンヒル(コンタンビル)はルルモッペ(=留萌)の酋長になっており、宗谷に限らず広範囲な勢力圏を築いていた可能性もある。
 (参考:「ある画像から ー交易の民アイヌ」(2014 佐々木利和))

・シルメキシユ(シルメキシユエ) (?~寛政期~?)
 トンベツの酋長、上記チョウケンの孫。チョウケンから引き続き交易によってかなりの財力を持っていた。寛政期に書かれた「蝦夷島奇譚」によると、十数領の鎧兜を持っており、そのうち一つは「霊鎧」と呼ばれ特別視されていた。挂甲(小札甲)と呼ばれる、大鎧などより古い鎧であったとみられる。他にも太刀や飾り刀、鎌倉時代の器を持っていたともいう。
 リンク:「蝦夷島奇譚

(留萌)

・イマウカシテ(トビラス) (?~天明期~?)
 ルルモッペ(留萌)の酋長。宗谷トンベツの酋長のチョウケンの子。経緯は不明だが、ルルモッペの酋長となり、財を築いている。
 天明4年(1784)平秩東作「東遊記」によると、100枚の筵を引く大きな家を持ち、13人の妾がいた、とのこと。
(参考:「留萌地域のアイヌ文化」(福士廣志)

・コタンヒル(コンタンビル) (?~文久期~?)
 上記、イマウカシテ(トビラス)の子でルルモッペの酋長。ルルモッペの酋長として、松浦武四郎の西蝦夷日誌で紹介されている。山丹服を着てキセルを持ち、小刀を差す肖像画が残っており、父の地盤を継いでかなりの財力を持っていたと考えられる。
(参考:「留萌地域のアイヌ文化」(福士廣志)

<道南>
(渡島)

・トンクル (?~文政・文久期~?)
 19世紀、オシャマンベ(長万部)の首長。長万部の南方、山越内場所は松前藩によって和人地の北限と定められ、社会の境界線となっていた。
 文政期に長万部のアイヌの長だったトンクルは山越内場所支配人に対し、「アイヌの人口は文化期には100戸500人を数えたが、現在では大きく減った。減っているのは、和人がアイヌの女性を強奪し好きにするためだ」と、そのような行為を止めさせるように申し出、守らせた。かなりの力ある酋長だったとみられる。
 しかし松前藩の政策が変わり、アイヌに和人の風習を強制するようになると、彼も力づくで髭を落とされ、髪を結われ「徳右衛門」の名乗りを強制された。その後、トンクルはそれを恥辱として死を選んだという。
(参考:「アイヌ地域史資料集」(平山裕人、明石書店、2016)113頁)

<道央>
(後志)

・ヘナウケ(辺那宇毛) (?~寛永期~?)
 江戸時代を通じてアイヌの松前藩に対する蜂起は数度発生しているが、嚆矢となる反乱を起こした酋長。
 シマコマキ(島牧)の酋長。寛永20年(1643)、周辺の村々のアイヌを率いて松前藩に対して蜂起した。セタナイ(瀬棚)において松前藩の軍と交戦し、松前藩の藩士を打ち取るなどしたが、同年5月には藩重臣の蠣崎利広がセタナイに入り、以後は動きは見られない。詳細は不明だが和平したか。
 島牧を流れる利別川では寛永8年(1631)に砂金が採取されはじめ、当時はゴールドラッシュに沸いていた。金堀たちはアイヌの地で金を掘った際にはアイヌに対価を支払っており、この頃から各地に金堀と協力して勢力を築く酋長が現れはじめるが、和人とアイヌの間のいざこざもまた多く発生したのではないか。
 また、寛永17年(1640)には駒ヶ岳が大規模噴火(→資料集「駒ヶ岳噴火津波」)し、道南部に大きな影響が出たことも関連しているかもしれない。