くま城戦軍研 ―熊代城砦戦国軍事研究所

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資料室

南部藩ヲシャマンベ陣屋

飯生神社内、史跡碑。(2019/8/27)

南部藩長万部陣屋
概要
 江戸時代末期の安政2年、幕府から東蝦夷地の沿岸警備を命じられた南部藩が築いた陣屋の一つ。20人ほどが勤務した。しかし長万部の沖は遠浅のために外国軍艦が接岸する可能性が低いことがわかったため、一年でその任務を終えた。現在は飯生神社が入り、土塁が現存している。
(登城日:2019/8/27 2022年8月の水柱事件以降、どうなっているのか心配)

Ⅰ 所在地等
  北海道山越郡長万部町
 (文化財指定など記入)
Ⅱ 種別・利用法
  土塁と堀による単郭の平城。陣屋として居住等に使用
Ⅲ 築城時期
  安政3年(1856)
Ⅳ 築城者
  南部藩(盛岡藩)
Ⅴ 主要な事象
  モロラン陣屋砂原陣屋などと共に構築。
  安政4年、意義が薄いとわかり撤収
Ⅵ 遺構
  土塁
Ⅶ 公共交通機関アクセス
  JR長万部駅から1kmほど、飯生神社が城跡

国土地理院HPを利用して作成

1 来歴
 幕末、ロシアの脅威が北海道に迫る中、安政3年(1856)に、恵山~幌別の間の警備を命じられた南部藩(南部家盛岡藩)が、モロラン陣屋(室蘭)の分屯所として砂原陣屋(城メモ)とともに築いた。
 20名ほどの兵が駐屯したが、長万部の沖は遠浅のために外国軍艦が接岸する可能性が低いことがわかったため、翌安政4年に撤収した。
 昭和8年に飯生神社が移転し、現在に至る。

2 構造

資料館展示から、南部陣屋の見取り図。細かい間取りまでよく描かれている(2019/8/27)

 土塁と堀を巡らせた単郭の平城。
 大きさは間口五十三間(約95m)、奥行八〇間(約144m)、高さ八尺(約2.4m)の土塁と深さ約五尺(約1.5m)の堀がめぐらされ、大砲2-3門を備えた(参考 ※1)

3 状況
 飯生神社の境内となっており、土塁が良く保存されている。

神社下から。土塁の様子がわかる写真。(2019/8/27)
神社周辺の土塁がみてとれる(2019/8/27)
解説板
(2019/8/27)

史跡ヲシャマンベ陣屋跡
 安政二年(一八五五年)南部藩は、恵山岬から幌別までの沿岸一体(ママ)の警備を幕府より命じられ、箱館(函館市)に元陣屋を室蘭に出張陣屋を砂原・長万部には分屯所を設けることにしました。
 ヲシャマンベ陣屋は室蘭の出張陣屋と同じく安政三年(一八五六年)に構築されましたが、安政四年(一八五七年)十二月に長万部沿岸が砂漠遠浅のため、外国船が容易に近づけないことから、陣屋の必要性がなくなり、南部藩は自藩に引き上げました。
 渡島北部における唯一の近世史跡として昭和四十九年八月に国指定文化財(史跡)となりました。
(注意)(略)

文化庁
長万部町

その他の写真
神社の前を通る道路はその名も「南部陣屋線」。後ろに見えるのは神社縁起(2019/8/27)
土塁。神社造成時に若干改変があったともいうが、全体的に良く残されている。(2019/8/27)
周囲の状況

 神社近く、長万部町民センターには郷土資料、鉄道資料などが集められている。

かつては長万部機関区も存在した鉄路の要衝であった。(2019/8/27)

個人的回想
 2022年8月に飯生神社で発生し、全国に長万部の名を広めた巨大水柱も、9月には収束が見えてきた模様です。観光資源として惜しかったという声もありますが、かなりの轟音だったということで、周囲の方は安心しているのではないかとも思います。


参考文書
・「日本城郭大全1 北海道・沖縄」 170頁(昭和55年、新人物往来社)

外部リンク
・「東蝦夷地南部藩陣屋跡」(文化庁 文化遺産オンライン)

内部リンク
・城メモ「南部藩モロラン陣屋
・城メモ「南部藩砂原陣屋