くま城戦軍研 ―熊代城砦戦国軍事研究所

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千代ヶ岡陣屋(千代ヶ岱陣屋)

 津軽陣屋、千代岡台場などとも。
 戊辰戦争最後の戦場。長きに渡り日本の歴史を牽引してきた武士の最期の地。
 仙台藩、津軽藩が元陣屋として構築。幕末に箱館に入った旧幕府軍(蝦夷共和国軍)が利用。五稜郭と箱館市街地との中間にあり、前哨基地として整備し、箱館奉行並兼砲術頭並(旧幕府浦賀奉行所与力)の重鎮、中島三郎助に守らせた。
(訪問日:2019/9/25 状況は2022年現在であまり変わっていないようです)

現地標柱より、説明文。(2019/9/25 撮影)

Ⅰ 所在地等
  北海道函館市千代台町
Ⅱ 種別・利用法
  単郭平城か。最後は実戦的な前哨基地として使用
Ⅲ 築城時期
  文化五年(1808)、安政2年(1855)
Ⅳ 築城者
  仙台藩が元陣屋(多数の陣屋の元締め)として築く。
  津軽藩も陣屋を築いた。明治元年、箱館に入った旧幕府軍が改修し利用
Ⅴ 主要な事象
  明治2年、箱館戦争において攻城戦が行われる。
  千代ヶ岡落城の2日後、蝦夷共和国は降伏し、戊辰戦争は終結する。
Ⅵ 遺構
  大正期までは土塁と堀が残っていたが、現在は湮滅。
Ⅶ 公共交通機関アクセス
  函館市電「千代台」電停の目の前、千代台公園。
  解説版や碑などは、電停から公園を横切って反対側にある。注意。

1 来歴
 文化5年(1808)、仙台藩により築城。
 日露関係の悪化に伴い、蝦夷地が幕府直轄となり東北諸藩による警護が行われた際、東蝦夷地を任されたのが伊達氏仙台藩。遠く択捉まで築かれた陣屋の元締めとなる元陣屋をここに築いた。文政4年(1821)、松前藩が蝦夷地に復帰したため廃止。東西約130m、南北約150mの規模があったという。
 安政2年(1855)、再び東北諸藩が蝦夷地を分割警護した際、箱館~恵山岬及び乙部~神威岬を任された津軽藩も、この地に元陣屋を置いた。津軽陣屋の名はこれによる。津軽陣屋の時点で四方を土塁と堀で囲んだ作りであった。
 明治元年(1868)、東北諸藩は一斉に撤去し、陣屋は空となった。
 同年、旧幕府軍が占拠。五稜郭と箱館市街地の中間にあったことから重視され、手を加え兵を駐屯させる。
 明治2年(1869)、新政府軍の攻撃が始まると、千代ヶ岡陣屋は蝦夷共和国の重鎮、箱館奉行並兼砲術頭並・中島三郎助(wiki)が守備。三郎助の二人の子の他、見国隊(隊長・二関源治)や伝習士官隊(頭取・内田量太郎)なども入った。
 五稜郭総攻撃の機運が高まる中、新政府軍からは中島に降伏勧告の使者が出され、蝦夷共和国からも大鳥圭介が撤退命令を伝達。戦前の軍議では降伏を説いていた中島だが、これらを両方拒否し、この地で討死すると公言する。
 5月16日に薩摩藩・福山藩などの総攻撃を受ける。中島は24ポンド砲などを用いて戦うが一時間あまりで敗北。二人の息子と共に戦死した。見国隊の二関隊長、伝習士官隊の内田らも戦死している。
 その2日後に蝦夷共和国は降伏、戊辰戦争は終結。主君は幕府ではなく蝦夷共和国となっていたとはいえ、中島らは最後まで新政府と戦った「最後に武士として死んだ者」と言っても良いだろう。

2 構造
 平城、おそらくは単郭で土塁と堀に囲まれた作りだったと思われる。大正時代までは現存しており、写真が残されている。
 箱館戦争において蝦夷共和国軍が手を入れたとあるが、時期的に大工事だったとは思えず、津軽藩陣屋時代から同様の規模だったと思われる。

千代台駅前歴史情報標柱から。大正初期には残っていた、土塁・濠の状況。中央に映っている人物から見ると、かなり大きそうである(2019/9/25 撮影)

3 状況
 一時期は廃墟となったが、砲兵連隊の基地などとして利用されたことも。
 現在は完全に湮滅し、千代台公園や中島小学校などとなっている。

4 特徴
 土塁と堀の状況しかわからないが、写真で見る限りはそれなりに立派な土塁と堀に見える。ただし、幕末時期の火力には無力であったとみられる。

現地の状況

現在では千代台公園となっている。
「日本城郭大系」では『若干の塁壁が残されている』とあったが、私には見つけられなかった。

千代台公園野球場、通称「オーシャンスタジアム」。北海道日本ハムファイターズによるプロ野球公式戦も実施される。(2019/9/25)

 中島三郎助の壮烈な死は多くの人に悼まれた。特に木戸孝允は中島邸に寄宿していたことがあり大義を感じていた。明治天皇の行幸について五稜郭に向かう途上で中島親子が戦死した当地を通った際は、人目をはばからずに号泣したという。
 そういった縁もあってか、昭和初期、この周辺の地名は「中島町」となり、現在もその名を残している。

個人的感想(今回長いので畳みます)


 土方と榎本、どっちがカッコいいか?
 歴史好きなら一度は考えた問いではないかと思います。
 そして、榎本の側には大鳥圭介を入れても良いだろうし、土方の側に入るのが本項の主役、中島三郎助。
 誰かが死なないと示しがつかない、けりがつかない。そう言った側面は確かにあるのだとは思います。「最後の武士」として戦い、この箱館戦争のけじめをつける形で死ぬ者の存在は必要だったのかもしれない。
 しかしこの中島三郎助という男は、そんな簡単に死なせて良いと思われている人間ではなかった。幕府の長崎海軍伝習所の一期生として造船を学び、日本初の乾ドック建造を指揮した、幕府の造船の立役者の一人。そして、新政府軍の攻撃を前に、日本人同士が戦うことの愚かさを説き、榎本らに降伏を説いたのがまさに中島本人。
 しかし最後は任されたこの千代ヶ岡陣屋を枕に討死することを公言、武士に二言はないとばかりに華々しく散った。大鳥の説得を受け、あるいは新政府軍の勧告を受け生き延びたならば、子供たちとともにどれだけの活躍をしたことか。
 と、函館市地図の「中島町」を見て、酒を飲みつつ思いを馳せるのでした。


外部リンク
中島三郎助父子最後之地(函館市観光情報「はこぶら」)
二関源治(宮城県大郷町HP) ―攻防戦に参戦した見国隊隊長 
千代台公園野球場「オーシャンスタジアム」(函館市文化スポーツ振興財団)

内部リンク
・関連項目:城メモ「弁天台場