くま城戦軍研 ―熊代城砦戦国軍事研究所

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弁天台場

 弁天岬台場とも。新政府陸軍時代は「弁天砲台」
 開港された箱館の街を守るため、武田斐三郎が設計し港口に築かれた洋上砲台。箱館戦争で戦場となる。新撰組最後の戦場としても知られる。函館港再開発に伴い消滅、石垣は函館漁港の護岸に転用された。周辺は埋め立てられ、乾ドックが建造された。その姿はなくとも、港湾都市函館の礎となっている。
(訪問日:2022/1/10)

現地案内板から、在りし日の弁天台場の写真。函館どつく電停前の公園にて(2022/1/10 撮影)

Ⅰ 所在地等
  函館市弁天町(現・函館どつく)
Ⅱ 種別・利用法
  台場(海上独立砲台)
Ⅲ 築城時期
  安政3年~文久3年(1856-1863)
Ⅳ 築城者
  設計は武田斐三郎(wiki)
Ⅴ 主要な事象
  箱館戦争における戦場の一つ。永井玄蕃、新撰組らが守った。
  明治31年、函館港整備の際に解体
Ⅵ 遺構
  なし
Ⅶ 公共交通機関アクセス
  函館市電「函館どつく前」近くの公園に歴史標柱と解説板
  どつくアネックスの駐輪場に台場跡の標柱
  

弁天台場周辺の地図。国土地理院HPを利用

1 来歴
 五稜郭の築城と同時期に、開港された箱館の守りを固めるため、10万両の予算をもって海上に築かれた砲台。
 箱館戦争においては旧幕府軍(蝦夷共和国軍)の拠点の一つとなり、共和国軍の重鎮、箱館奉行・永井玄蕃が入り指揮を執った。箱館山を奪取された新撰組も弁天台場に入っている。
 箱館湾海戦において海軍と協力して戦うも敗戦。蝦夷共和国は海上戦力を喪失し、制海権を失ったことで箱館中心部を占領され、弁天台場は五稜郭と分断される。その後も海軍兵なども加わり陸海からの攻撃に耐えていたが、補給線が途絶えたことで食料が尽き、永井以下240名の共和国軍は降伏した。
 戦後は陸軍がそのまま砲台として利用していたが、明治29年以降始まった函館港整備に伴い消滅、石垣などは函館漁港の護岸に使われた。また、同時に周辺の浚渫や埋立、ドックの建造も開始。明治36年には、かつて台場があった地に、函館船渠株式会社(函館どつくの前身)の第1号乾ドックが完成している。

函館どつく電停前の公園にある解説板。(2022/1/10)
同じく、公園に建つ歴史解説柱。表面は「永井玄蕃」(2022/1/10)

2 構造
 海上に独立して築かれた砲台。形は不均等な六角形で、将棋の駒のような形をしていた。周囲は約684メートルで石垣を持つ土塁で囲まれ、面積約32340平方メートル。当時としてはかなり堅牢な作りであった。
 南東側にはアーチ構造を持つ門があった。

3 状況
 前述のとおり、遺構は完全に消滅。
 函館市電電停「函館どつく前」の公園に関連する解説板、歴史解説柱及び「新撰組最後の地」の碑など。かつては洋上だった跡地、函館どつくの前の駐輪場に、「弁天台場跡」の標柱が立っている。  

「函館どつく前」に建つ標柱。周囲の自転車は、多分、修理入渠中でドックハウスで暮らしている自衛艦乗員たちのものが多いのでしょう。(2019/9/24 撮影)

4 特徴
 明治30年台に解体される際の逸話を函館市史から引用する。

「この台場は明治29年港湾改良工事のため取崩したが、当時この工事を担当した工学博士広井勇は、この築設は今日の工法に比して少しも劣るところなく、四隅に鉄柱を貫通して堅牢ならしめるなど、その用意周到なことを驚嘆したと伝えられている。」(函館市史デジタル版(参考※1))

5 その他
 函館総攻撃に備え箱館山を防衛していた新撰組だったが、新政府軍の奇襲を受け陥落、新撰組は弁天台場に合流する。
 弁天台場落城に際し、土方歳三が一本木で戦死したと聞かされた新撰組は、相馬主計(wiki)が隊長として恭順文書に署名。
 文久3年(1863)、京都の地で結成された新撰組の波乱の歴史は明治2年(1869)のこの時に、その幕をそっと閉じた。

新撰組最後の地、碑。上記解説板の近くにあります。(2022/1/10 撮影)
ディアナ号の大砲

 靖国神社の遊就館に展示されているので見たことがある方も多いかもしれない、ロシア軍艦ディアナ号のものとされる錨と大砲。砲は横須賀の「三笠」でも展示されている。この大砲の方に弁天台場が関わっているので本項で触れる。

 安政元年(1855)、外交使節プチャーチンを乗せ来日し、下田に停泊していたロシア軍艦、ディアナ号は津波により損傷を受け、日露双方の努力むなしく沈没した。
 プチャーチンは幕府の協力で代船「戸田丸」を建造。ディアナ号の大砲を一部積んだが、52門の大砲が余り下田に置いていった。日露和親条約批准の際、この大砲はロシアから幕府に正式に寄贈された。
 この砲の一部が、同時期に築城が開始された五稜郭及び弁天台場の備砲となったといわれている。

 蝦夷共和国軍は箱館湾海戦において砲の一部を旗艦「回天丸」に載せ戦った。奮戦した回天丸であったが、衆寡敵せず沈没。後日、函館港から引き揚げられた大砲が、現在遊就館に展示されている…というのがストーリーですが、多くの人が指摘しているとおり、多分間違いです。
 遊就館で今でもみられるので機会があれば砲の上面を見てほしいのですが、遊就館の大砲は明らかにイギリス製。おそらくは、回天と一緒に沈んだイギリス製の軍艦「蟠龍」の砲なのではないかと思われます。
 三笠の方は本物かもしれません。

周囲の状況

 函館どつく電停前の公園に、標柱や解説板など、歴史的展示が集められている。

前述の歴史解説柱。表は永井玄蕃です。(2022/1/10 撮影)
裏面、永井玄蕃の解説。この維新150年記念の歴史解説柱は函館周辺のあちこちにありますが、どこも情報量が濃い!(同上)
裏面。蝦夷共和国会計奉行の川村録四郎と、最後まで新撰組として戦った島田魁について(同上)

個人的回想
 江戸幕府でも最高級のテクノクラート、武田斐三郎の凄さが分かる建造物の一つ。30年後の工学博士を驚かせるこの設計を、少ない資料から成し遂げたこの人は本当に凄いと思います。
 そして、そんな幕府の技術の粋を集めた砲台は港湾の護岸に化け、その地に建つのは造船所のドックとなり、姿は完全消滅しても港湾都市函館の礎として存在感を残しているというのも、また面白い歴史の綾だと思います。


参考文献
※1 函館市史(デジタル版)通説編第1巻第3編 リンクは後述

外部リンク
「弁天台場跡」(函館市観光情報「はこぶら」)
「函館市史デジタル版・弁天岬台場」

内部リンク
関連項目:城メモ「千代ヶ岡陣屋