くま城戦軍研 ―熊代城砦戦国軍事研究所

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資料室

高楯城(飯詰城)

主郭跡に建つ城址碑(2018/10/28撮影)

概要
 現地での表記は「高楯城」、日本城郭大系等では「飯詰城」。糠塚川に臨む丘に築かれた平山城。
 平安時代に築かれた「玄武砦」に始まるとされ、南北朝時代に築城されたともされる。戦国時代の城主・朝日行安は、津軽統一を目指した大浦(津軽)為信に抗い、十年余に渡って抗戦したものの落城したという。この一戦を以て津軽為信の津軽統一がなされた、とも。
 一方、朝日氏については「東日流外三郡誌」が元になっている資料しかなく、戦いどころか家としての実在すら疑問視する研究もある。ただ、城跡は現にそこに存在する。
(登城日:2018/10/28 それ以降に状況は変わっていると思われます。)

Ⅰ 所在地等
  青森県五所川原市飯詰
Ⅱ 種別
  平山城
Ⅲ 築城時期
  1091年に玄武砦。弘安元年(1278)、興国5年(1344)築城とも
Ⅳ 築城者
  玄武砦:安東氏、高楯城:朝日(藤原)景房とも
Ⅴ 主要な事象
  天正16年(1588)、津軽為信の攻撃により落城
Ⅵ 遺構
  郭、堀跡
Ⅶ 公共交通機関アクセス
  津軽鉄道・津軽飯詰駅から約1.5km。妙龍寺の裏

国土地理院HPを利用して作成

1 来歴
 城の来歴については、「東日流外三郡誌」(wiki)が元であり、朝日氏の実在自体が怪しい、というのが現状ではある。

 平安時代の寛治5年(1091)、玄武砦が築かれたのが始まりという。弘安元年(1278)、安藤貞季の築城によるのが始りという記載もあり。
 興国5年(1344)、万里小路藤房(wiki)の子、景房が朝日氏を名乗り、砦の跡に築いたのがこの城らしい。浪岡城に入った浪岡北畠氏に仕えたか。城に残る解説板にも景房の由来は記されているが、典拠が「東日流外三郡誌」とあり、怪しさを感じざるを得ない。
 戦国時代後期、天正期の津軽では、大浦為信(津軽為信)が勢力を拡大する。
 天正6年(1578)には為信は浪岡城を攻略、南北朝時代以来地域を治めた名家、浪岡北畠氏を滅亡させる。
 主家滅亡後も高楯城主の景房の子孫、朝日行安は為信に抵抗。10年にわたって抵抗を続けるが、水脈を絶たれて敗北し、滅亡したという。
 最後の奮戦の様子は後述の現地解説板に書かれている。
 その後は廃城になったか。

 天正16年(1588)、大浦為信は飯詰の街づくりを行っており、これまでには飯詰は為信の勢力下におかれたと考えてよさそうである。(この最中、喜良市に所在していたアイヌの酋長、八重・佐助を討伐した模様)(参考 ※3)
 江戸時代の記録でも「古城」として記録されており、何らかの城跡はあった模様である。朝日氏の実在が怪しいにしても、何らかの勢力がここにいて、津軽為信により征服されたのではないか。

 昭和42年、「高楯城址史跡保存会」結成。
 昭和51年、高楯城資料館「あすなろの家」が完成。ただし、現在は閉館している模様である。(参考 ※2)

2 構造
 糠塚川に面する細長い台地上に築かれている。
 妙龍寺の裏から登ると、順に旧資料館が建つ郭、その東の郭、堀切を挟んで郭、そこから一段高く主郭が並ぶ。主郭の東側は、かなり険しい切岸。その東には三重堀があり守りを固めているとのことだったが、藪で確認できなかった。
 南側の果樹園は腰郭か、堀か。
 「日本城郭大系」には、「15mほどの堀を挟んで並行する高地があり」、上部に空堀があるとある。(参考 ※1)稲荷神社がある丘が該当するか。

3 状況
 城の郭、堀切などが保存されている。
 西の郭には旧高楯城資料館、「あすなろの家」が残っており、イベントなどの際には使われてもいるそうだが、普段は閉鎖されている。
 主郭前には鳥居があり、その奥に前掲の城址碑が建つ。

旧高楯城資料館、「あすなろの家」。廃墟という感じではなく、手入れされている。飯詰地域のホームページなどによると、たまに使用されている模様。(2018/10/28)
資料館から堀切を越えた郭。中央奥の小高い部分が主郭、入口の鳥居がわずかに見える。(2018/10/28)
鳥居を越えた主郭。右奥の黒い石碑が城址碑。左は忠魂碑(2018/10/28)

4 その他
 最後の城主、朝日行安は奮戦し、津軽為信をかなり苦しめたという。
 そのせいもあってか、落城後、周辺では朝日氏の縁者を徹底的に探し出し、一族を完全に抹殺したとか。周辺では、怪異や不作などが発生し、朝日氏の祟りと噂されたという。

解説板
(2018/10/28)

 「再会の碑」の横に解説板。誰が建てたか記載なし。内容はほぼ「東日流外三郡誌」から。なお句読点を配する以外、すべて「原文ママ」

 高楯城址由来
奥州津軽奥法郡飯積に位する高楯城は藤崎城主京師管領代官安東十郎五郎貞季が弘安元年に夷治の柵として築城せしは高楯城の創りなり。降りて興国二年七月萬里小路中納言藤原房公の胤景房殿が安東三郎宗季殿より飯詰の座を分属なして君臨し玆に高楯城は城郭として堅固に築城されたり。爾来、高楯城主の継君せること十三代朝日左衛門之尉行安殿の世代、即ち天正六年七月行丘城主北畠朝臣顕村殿が大浦為信の侵領を受けて一夜のうちに落城されてより、為信がいよいよ以て津軽平征の野望に燃え破竹の勢力を挙して津軽六郡を攻略せしめたり。依て古来より北畠氏と倶に宮方に属せし高楯城主朝日左衛門尉行安殿は大浦為信の奸策に怒り飯積武士及び農民夷人等を皆兵として挙兵せり。阿修羅の如き大浦勢と相対して攻防実に十有餘年、原子館の合戦、尻無柵の合戦、神山の合戦、悪道柵の合戦、金山館の合戦、盛越柵の合戦、金神館の合戦、喜良市の家阿泉、白旗八幡の合戦、中山大坊の合戦等を経て遂に天正十六年六月十六日高楯城主従は玉砕の意を決し、先ず以て老臣女童を密かに秋田旭川の地に脱難せしめたる後、高楯城に残る寵城の兵は主従倶に二百七十餘名なり。夜明ける辰の刻、城主自ら弟なる十三湊判官樺沢団右衛門藤原行貞殿と水盃し自ら高楯城に火を放つ。軍神摩利支天のごとく大浦軍の陣営に斬込みて刀折れ血の流れ出づる限り戦ふて壮烈な武人の最期を遂げたり(以上東日流外三郡誌より)
  歌人菅井真澄翁の曰く
 ものゝふのかけし鎧かふちなみか
  よせてをまたで泡と消えけむ

アクセス補足資料

「妙龍寺」の裏を登ると、すぐに資料館跡に出てわかりやすい。

飯詰全体の手書き案内地図から、城の周辺を抜粋。全体図はページ下部リンクから、「飯詰を元気にする会」へ(2018/10/28)
上の地図で「登り口」とある分岐点にあった城址碑。ここを左にむかう(2018/10/28)
妙龍寺入口の縁起。勧進したのは朝日行安らしい。下にあるのは菅江真澄歌碑(2018/10/28)
妙龍寺境内にある登城道。左奥に、前掲の旧資料館が見えている(2018/10/28)
周囲の状況

 所在地は飯詰地方の中心部にあたる。
 江戸時代の飯詰は、弘前藩に五か所置かれた市場の一つが置かれた(弘前、黒石、飯詰、板柳、浅虫の五か所)という資料もあり、流通の要衝となっていたのではないか。

津軽鉄道津軽飯詰駅。看板には「高楯城 霊木と梵鐘」とあり、城関係の資料もあるのかも(2018/10/28)
津軽飯詰駅内の様子。月に一回は難易度高いですね…(2018/10/28)

個人的回想
 朝日氏が実在したのかどうかについては、「意見がわかれる」というのが現状だと思います。「東日流外三郡誌」の記述を元に存在を主張することはとてもできません。ただ、何らかの勢力がここに存在し、飯詰は当時から江戸時代にかけて津軽統治において重要な地であったのは確かです。

 個人的には、やはり朝日氏は「長くこの地を治め、一族玉砕したにしては存在感が希薄」と思います。怪談くらいしか残る逸話がない。比べるのもおかしいですが、同じく城を枕に一族郎党が抗戦し全滅した姉帯氏の姉帯城などは、逃れた姉帯氏の末裔が城を訪れていたりする。姉帯氏より遥かに家格も高く、統治も大規模だったはずの朝日氏がこうも影も形もないのは少し奇妙に感じます。

 なお、津軽の城巡りの旅はかなり昔の2018年。
 僕もまだまだ城メモラーとして甘かったな、というのが、残る写真からも感じられます。例えば城址碑の裏面には解説があるようなのだが確認していなかったり。城を東西に分ける大堀切の写真がぼやけていたり。
 悔いが残る城の一つではあります。


参考文献
※1「日本城郭大系2 青森・岩手・秋田」 124頁 (新人物往来社)
※2「冊子」 「飯詰を元気にする会」作成の冊子とみられる。
※3「新編弘前市史 通史編2近世1」(ADEAC版)

外部リンク
・「飯詰を元気にする会」飯詰周辺の観光案内など。
・「朝日行安」(wikipedia)
・「東日流外三郡誌」(wikipedia)