くま城戦軍研 ―熊代城砦戦国軍事研究所

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資料室

マリアナ諸島

大航海時代以前:チャモロ族統治
大航海時代以降:スペイン領
第一次世界大戦以前:グアムはアメリカ合衆国領、その他ドイツ帝国領
第二次世界大戦以前:グアムはアメリカ合衆国領、その他大日本帝国委任統治領
第二次世界大戦中 :グアムを大日本帝国が占領統治
第二次世界大戦後 :すべてアメリカ合衆国領

 本項では、グアム島、サイパン島及びテニアン島などの島を含む「マリアナ諸島」について述べる。

パブリックドメインとなっている「Mariana Islands.png」を改編して使用しています。赤枠が主要な島。

1 概要
 日本南東の太平洋上に位置し、南北約800kmに弧状に広がる諸島。最南端のグアム島から、最北端まで約15の島からなる。
 小さい諸島ながらも西太平洋の中心ともいえる位置から戦略的重要性は高く、大航海時代から現代に至るまで、太平洋の要衝となっている。
 原住民はチャモロ人で、10万人規模の文明を築いていた。大航海時代にスペインに発見されてからはスペイン領となり、太平洋航路の重要拠点となる。「スペイン・チャモロ戦争」でチャモロ人は激減。
 その後グアムはアメリカへ、その他(北マリアナ諸島)はドイツへ売却。北マリアナは後に大日本帝国委任統治領となり、特にサイパンやテニアンは繁栄した。
 大東亜戦争(太平洋戦争)においてはグアム島も日本軍が占領、統治。大激戦地となった。現在はグアムを中心に、平和な南国リゾートとして、また米軍の軍事拠点として繁栄している。

当所作成。

2 戦国/大航海時代前略史
・先史時代
 紀元前20世紀ほどには移住者の定住があったとみられる。遺伝子学的研究や言語学研究により、その祖先は他の太平洋諸島の住民とは異なり、インドネシアなどから渡来してきたと考えられている。マリアナ諸島の原住民「チャモロ」の伝承では、最初にこの地に来訪した人間はブンタン、フウニャという双子の兄妹だったという。
 また、先史時代には既に米を栽培していた可能性があり、宗教的に特別な食べ物であったとみられている。他にも豊富な水産物やタロイモ、バナナ、ココナッツ等を主食として文明が発展した。

・「ラッテ期」
 9世紀頃、テニアン島を中心に「タガ王朝」が成立したとされるが詳細は不明。王朝と関連してか、現代にも残る「ラッテ・ストーン」が作られ始める。この石柱はテニアン中心にマリアナ諸島の各地に現在でも多く残っており、高床式住居の支柱と考えられている。
 マリアナ諸島の歴史的分類として、これ以後から、スペインの統治によりラッテが築かれなくなる17世紀までを「ラッテ期」と呼ぶ。

 タガ王朝については不詳だが、チャモロ人の社会はある程度解明されている。
 首長級階層「チャモロ」を中心とした階級的社会であり、上級階級「マトゥア」、アッパーミドル「アチャオット」、下級「マナチャン」からなっていた。マナチャンは完全に別階級とみなされ、上級階級との交流も少なく、アチャオットを仲介して交易などをしていた。上級階級の方が海の近くに住んでいたという特徴がある。そのほか、祖霊と交信できるシャーマン「マカーナ」や自然由来の治癒を行う「スルハヌ」(wiki(en))などの地位が存在した。

 11世紀頃にカロリン諸島からの移住者があり、有用な果実である「パンノキ」(基礎資料)がもたらされたとみられる。
 また、大航海時代にマゼラン一行が見て「飛んでいるようだ」と驚いた三角帆付きのアウトリガーカヌー「サクマン」(wiki(en))はこの頃には開発されていたとみられ、他島との交易や遠海での漁に用いられていたと思われる。

wikipedia」より引用、1742年のパーシー・ブレッド中尉による「サクマン」のスケッチ。特徴的な三角帆と、fig 2の正面から見た絵で右に突き出ている「アウトリガー」が機動性の鍵。(この画像はパブリックドメインとなっています)

3 スペインの進出
 新大陸を発見したスペインはさらに西へと進み、太平洋に進出する。この原動力となったのは、「新大陸から西に進めば東南アジアにより早くたどり着け、香料を独占することができる」という妄想であった。

 日本の戦国時代~江戸時代初期に起きた、スペインによるマリアナ諸島への進出を大雑把にまとめ、詳細は畳んで示す。
・1521年3月6日、マゼランが発見
 島民といざこざ、「泥棒諸島」(ラドロネス諸島)と名付ける。

1521 マゼラン、「発見」 ~奇跡的に他の島に寄らずグアムへ

 1521年、マリアナ諸島に最初の欧州人、マゼラン(wiki)の艦隊が訪れる。後に世界一周を成し遂げるマゼラン艦隊だが、太平洋では奇跡的ともいえるほど島に出会わず、マリアナ諸島以前には現クック諸島プカプカ島(wiki)とみられる島で補給したのみであった。

(余談ではあるが、現代の地図を見れば「マゼラン海峡を抜け西に向かった艦隊が出会い補給したのがプカプカ島とグアム」というのが如何に奇跡的かよくわかる。広大な海洋交易圏を持っていたトンガやヤップ、大陸に近いラパ・ヌイ(イースター島)等と接触していれば、太平洋の歴史はまた大きく変わったのだろう。)

 マゼラン艦隊はグアム島(現ウマタック(wiki)南方)に上陸。
 この島に抱いた第一印象は「イスラス・デ・ラス・ヴェラス・ラティナス」(大三角帆の島)で、島民が扱う「サクマン」と呼ばれる三角帆を持つカヌー(フライングブロア)のことを指す。スペイン人はその速さと敏捷な動きに驚愕したという(参考 ※2)。
 しかしその後、チャモロ人がそのカヌーの機動性を活かして「はしけ」など悉くを盗んでいくのに辟易し、島を「ラドロネス(泥棒)島」、付近の島を「ラドロネス諸島」と名付けるとともに、報復として住民を殺害した。
 
 なお、到達が確認できるのはグアム近傍の無人島ココス島(wiki(en))のみであり、北方のロタ等にはこの時点では到達していないと思われる。

・1565年、レガスピが領有を宣言
 実質的には補給基地としての確保に留まり、チャモロの社会は存続したまま。
 スペインは太平洋西航時にマリアナ諸島で補給、東航時は無寄港でアカプルコに帰投という航路を利用。このためマリアナ諸島はスペインにとって唯一無二の補給地となる。

 以後、イエズス会のサン・ビトレスがキリスト教布教を志すまでの100年ほどは、記録に残らぬ争いは多々あったろうが、比較的平和にチャモロ文化のもとで補給地として存続していたと考えられる。

1565 レガスピ、「領有」 ~太平洋唯一の拠点へ

 1564年、香料諸島を目指してメキシコを旅立ち西へ向かったスペインのコンキスタドール(征服者)ミゲロ・ロペス・デ・レガスピ(wiki)は、1565年初頭に「泥棒諸島」のグアムに到達。
 当地で補給を行うとともに、グアム及び周辺諸島がスペイン国王領であることを宣言した。といっても具体的に諸島領有のために動いたとはいえず、あくまで形式的に領有を宣言し、以後の補給拠点としての確保を目指しただけにも思える。またレガスピもグアム島民といざこざを起こし、島民を殺害している。
 レガスピはこの後さらに西進、フィリピンのセブ島に拠点を築く。彼らは後にマニラを武力制圧しフィリピンを領有するという功績を挙げる。

 マリアナ諸島にとって重要なのは、フィリピンの制圧を目指したレガスピが、配下のアンドレス・デ・ウルダネータ(wiki)率いる分隊を、援軍要請のためにメキシコへ向かわせたことである。
 ウルダネータは北緯36度まで北上し東進する、ハワイ諸島などをかわす航路でアメリカ大陸の拠点、アカプルコに帰り着いた。
 以後、スペイン人たちはこの航路を踏襲。西に向かう際はマリアナ諸島で補給してフィリピンに向かい、帰りは無寄港で、ハワイを始めとする太平洋の島を無視して戻る航路が確立する。(参考 ※2)
 これにより、マリアナ諸島は太平洋におけるスペインの唯一の拠点としての立場が確立することになる。

・1668年
 イエズス会宣教師、サン・ビトーレスがキリスト教布教を志し来島。名を「マリアナ諸島」と改める。
 チャモロの旧習を陋習として破壊し、戦争の引金になる。

1668 サン・ビトレス、「布教」 ~チャモロ文化の破壊

 イエズス会の宣教師であったディエゴ・ルイス・デ・サン・ビトレス(wiki(en))は1662年、フィリピンへの途上でグアムに立ち寄る。この際にグアムへの布教を志したのだろう。帰国後にスペイン国王フェリペ4世を説得し、1668年、グアムへ向かう。
 彼はラドロネス(泥棒)諸島をスペイン王妃の名を取って「マリアナ諸島」と改名。グアム島ハガニャ(ハガニア、wiki)の酋長、ケプハ(wiki(en))に歓迎されたビトレスは、翌年には現在の聖母マリア大聖堂(ハガニア大聖堂)(グアム政府観光局HP)の地に教会を設立した。

 衣服などやビーズなどにつられ多くの者が洗礼を受けたが、ビトレスはイエズス会的熱意によりチャモロの文化を破壊し、チャモロ人との間には軋轢も生じていく。
 チャモロ人は祖先の頭蓋骨を籠に入れて家屋内で保管し、深く崇敬する文化があったが、ビトレスらはイエズス会的熱意を以て、丁寧に「洗礼を受けずに死んだ彼らは地獄に落ちている」と説きつつそれらを破壊した。キリスト教的な奉仕を住民たちに強いたこともあり、住民たちの一部はビトーレスに反発していく。

 後ろ盾であったケプハが1669年に死ぬと彼の埋葬をめぐってさらに対立は深まり、グアム北部やサイパンなどの北部諸島でキリスト教布教に対する妨害が激化する。特にシャーマン階級「マカーナ」は存在価値を宣教師により完全否定されたことから、スペイン人を強く恨んでいた。
 1670年、酋長フラオ(wiki(en))が反スペインの住民を糾合。スペインに協力的な酋長アイヒ(wiki(en))の密告により蜂起を知ったスペイン側はハガニャに防御施設を構築、包囲戦が勃発した。(第1次ハガニャ包囲戦)
 チャモロの戦いは犠牲者が出ないことを重視した儀式的なものであり、スリングと呪詛の言葉による激しくない攻撃が続き、台風により包囲は終結する。この戦いの後、ビトレスは防御を固めるとともに増援の兵を本国に要請した。
 一方、グアム北西の村タモン(wiki)の村長だったマトーパン(wiki(en))は一度洗礼を受けるも、宣教師たちがチャモロの文化を破壊するのを見て棄教していた。1672年、ビトレスがマトーパンの留守中に娘を勝手に洗礼したことに怒り、フラオとともにビトレスを殺害した。
 スペインは報復としてタモン村を攻撃し、フラオや多くの村人を殺害するなど戦果を挙げた。マトーパンは後にロタ島に逃れ再起を図るが、スペインの怒りを恐れた島民に殺され、その遺体はスペインに渡された。

 なお、キリスト教を拒否したマトーパンは、欧州中心の歴史観の中で長く「優れたキリスト教文化を拒否し、神の使いを殺し、スペイン・チャモロ戦争の引金を引き、チャモロの苦難の幕を開けた愚人」という評価を下されてきたが、近年では「民族自決の体現者、民族文化の守護者」として象徴的存在ともなっている。

・1670~1699年
 スペイン・チャモロ戦争(wiki(en))。最終的にスペインはマリアナ諸島を北まで征服。
 災害や天然痘の流行も重なり、10万人の文明を誇ったチャモロは5,000人以下に減少、諸島の全住人はグアム島の指定地に強制移住させられる。
 戦争中の1676年に、初代マリアナ諸島総督が任命されている。

1670 スペイン・チャモロ戦争

 ビトレスの死と前後して反キリスト教の活動は過激化し、多くのスペイン人神職者やそれに加担する新大陸人・チャモロ人が殺されていた。
 1674年、駐屯地司令としてダミアン・デ・エスプラナがマリアナ諸島に来島する。彼はベテランの軍人であり、キリスト教社会に危害を及ぼす者には徹底して罰を与えるべきであると考えていた。

 エスプラナはアイヒの率いるチャモロ人兵とともに反スペインの村を攻撃。タモンをはじめ、過去に反逆や宣教師らの殺害に関わった村を攻撃し、時には村を全滅させた。
 協力的な村にはミッション・スクールが築かれ、キリスト教的な教育を住民たちに施した。そこに入りキリスト教に触れた女子たちが両親の反対を振り切ってスペインの兵士たちと結婚する事例が多く発生し、それもまたチャモロ人の不満を生んだ。

 1676年、スペインは最初のマリアナ諸島総督、フランシスコ・デ・イリサリ・イ・ヴィヴァルを派遣。一応は文武の最高責任者だった総督だが、エスプラナを御せるはずもなく、チャモロへの強硬姿勢は継続。
 盲目のチャモロ人、アグアリン(wiki(en))はチャモロたちに蜂起を説き、多くの賛同者を集めスペイン人の拠点を攻撃した。(第2次ハガニャ包囲戦)拠点を包囲しつつ畑を破壊し兵糧攻めを目指すが、アイヒなどのスペインへの協力もあり果たせず、敗れた。
 スペインはキリスト教的に築いた町に住民を移住させ、拒む村を焼き尽くす政策(レドゥシオン)(削減、wiki(en))を実施。これにより反スペイン的なグアム北部の村などは悉く壊滅された。

 1680年以降、スペインは北方のロタ島、さらにはサイパン・テニアンへも派兵。最初はロタやサイパンにも宣教師を置き統治しようとしていたようだが、結果として北方の島々はすべて「削減」され、全ての住民はグアムの指定した町に強制移住、グアム以外はほぼ無人の島となった。 

 チャモロ人はスペインとの接触前、諸島全体で10万ほどの人口がいたと思われるが、この戦争と、同時にスペインにより持ち込まれた天然痘により住民は激減、5000人を下回るほどになったと考えられる。
 チャモロ人たちはスペイン風の名前を強制され、完全にキリスト教徒として生まれ変わった者だけが、スペイン政府によりグアム島の指定された町で生き続けることができる状況となった。スペイン人との混血もかなり進んだ。
 スペインは帝国主義の広まりの中、パラオやカロリン諸島など多くの太平洋上の島を領有していくが、マリアナ諸島は重要拠点として統治され続けることとなる。レガスピの領有宣言から300年以上にわたり、フィリピンと新大陸の間を行き来する交易船の補給基地として維持された。
 なお、テニアン・サイパンなどの北方の島へはスペインの興味は薄かったようで、カロリン諸島やハワイ王国からの移住者が住み着いたりしている。
 19世紀にはスペインも北方の島へのチャモロ人の帰島を認めるようになり、テニアンには家畜を放牧したりするが失敗している。

4 米西戦争以後
 米西戦争以後は薄く畳んで紹介します。

米西戦争、二つの世界大戦、その後

・米西戦争
 1898年、米西戦争においてスペインがアメリカ合衆国に敗北。戦後処理においてフィリピンと共にグアムがアメリカ領となる。
 以後、グアムは米国の重要な軍事拠点となる。
 新大陸とアジア等からの略奪的収益により成り立っており、工業化にも植民地の収益化にも失敗していたスペインはこの敗戦により世界の主要国から完全に脱落。太平洋の領土を維持できなくなり、グアムを除く北マリアナ諸島を含む島々と広大な海洋は、新興勢力のドイツ帝国へ売却された。
 ドイツはスペインと同様にこの島の発展にはさほど興味がなく、サイパンは主として流刑地として用いられた。
 フィリピンも得たアメリカ合衆国にとっては、グアムが西太平洋における最重要拠点となる。アメリカはグアムを発展させていくが、それは「島をアメリカ化する」ことで進められていった。ある意味でスペイン以上の速度で、グアムはアメリカ化していくことになる。
・第一次世界大戦
 第一次世界大戦でドイツは敗れ、北マリアナ諸島を含む島々と広大な海洋は、さらに新興勢力の大日本帝国の委託統治領となった。
 日本はドイツと違い島を真面目に発展させようとした。特にテニアン、サイパンを中心に産業を興し、共に数万人の住民を抱えるほどに発展させている。
・第二次世界大戦
 第二次世界大戦で日米は敵となり、米領のグアムは大日本帝国軍に攻略された。「大宮島」と改名されたグアムは太平洋戦争での重要な拠点となり、軍民問わず多くの日本人が移住した。
 戦況が米国有利となる中で北マリアナ諸島とともに攻略され、その途上では多くの悲劇的な戦いが繰り広げられた。
 以後は北マリアナ諸島を含め、米国領として発展している。

5 産業
・漁業
 古くから住人の主産業。特に「サクマン」と呼ばれる三角帆付きアウトリガーカヌー(フライング・ブロア)は優れた機動性を持ち、遠海まで進出し、大型魚や深海魚を捕獲していたと思われる。また、川魚(ティラピア、バスなど)も採れ、海水魚との交換も行われていた。
 しかし海洋カヌー文化は、他の島との交流を恐れるスペインが統治中に徹底して破壊したとされ、かつての外洋での漁業の詳細は現在に伝わっていない。
・農業
 古くから伝わる米が重要な作物であったが、これも宗教的な価値を恐れるスペインにより一時栽培が中止された。(参考 ※3)スペイン統治時代にメキシコから「アチョーテ」という実が伝わり、これを使い米を赤く染める「レッドライス」が開発され、現在ではチャモロ料理の看板料理となっている。
 他にはバナナやタロイモ、パンノキなどが主要な農作物であり、スペイン統治後はトウモロコシ等新大陸の作物も多く移入された。
・その他
 スペイン統治時代には補給地点としての活用のみが求められており、産業は発展しなかった。(むしろスペイン人は産業の発展を抑制すらした)
 日本統治時代のサイパンやテニアンではサトウキビを原料とした精糖業が盛んとなり、東洋屈指の生産地となった。
 また、現代では諸島全体として主な産業は観光となっている。

6 戦国メモ
 日本から一番近い外国の一つ、グアム。戦国時代には数多くの住民を抱える文明が育っているものの、スペインの本格的侵攻前夜という状況である。
 第一次・第二次世界大戦の戦況、そして海洋の持つ大いなる力を知る現代人が戦国時代に行ったとして、太平洋最重要要衝の一つ、グアムは日本からの距離にしても、この時点で「無主」と言える状況からも、極めて魅力的だろう。
 戦国時代に考えられる利用法とスペインとの関係については少し作者の妄想入るので畳みます。

マリアナ諸島の利用

・補給地としての利用
 戦国時代においては、レガスピの領有宣言前後となるが、あまり状況は変わらない。領有を宣言したといっても、17世紀半ばのサン・ビトレス来訪までのスペインは補給拠点としてのグアム以外には強い関心がないと思える。
 そのまま補給地点として活用することも可能ではないかと考える。ただし、マゼランからレガスピ、後の航海者に至るまで苦しめられた、道徳観や財産の考えに対する相違から来る島民の「手癖の悪さ」には注意が必要である。

・交易相手としての利用
 スペイン人は南米から運んだ銀をフィリピンに運び、アジアの産物(香辛料、絹など)と交換し利益を上げている。フィリピンに行く以上の利益をスペイン商人に与えられれば、対スペイン交易地となる可能性もある。
 一方、チャモロ人は食料程度しか産物が無く、交易相手としての旨味は薄い。しかしサン・ビトレスがキリスト教を広める際と広めた後の記録を見ると、スペイン人がもたらす衣服や装飾品に強い憧れがあったらしく、これをスペイン人以外からも得られると示せば、有利な関係を築けるかもしれない。

・領土、もしくは領国(同盟国)としての利用
 上記の通りグアムは、戦国時代~江戸時代にかけては、大航海時代太平洋の覇者、スペインにとって唯一無二の補給拠点。この小さな島を手に入れるためには、世界の海の覇者であるスペインに挑戦する気概が必要となる。
 しかし、文化を破壊する脅威となるサン・ビトレスの来訪以前は、スペイン人も横暴な姿勢を取りつつもチャモロ人文化を容認(放置?)しており、キリスト教の脅威を説いて味方につけるのは難しいかもしれない。

大航海時代太平洋の覇者、スペイン

 
 確かに当時のスペインは強者ではあるものの、マハンが「海上権力史論」で論ずるとおり、太平洋の東西に拠点を持ちつつもそれを結合する「シーパワー」を持つには至らず、ただただ先駆者として新大陸と太平洋に到達し、略奪的にその富をむさぼっているのみの簒奪者。そしてその姿を鏡のように映し出していくのが戦国時代、そしてその後のマリアナ諸島である。
 スペインによる文化の破壊を伴う領土拡張や略奪的な交易手段は、ほんの百年後には否定され、新時代の海洋国に蹂躙されていく運命にある。
 後の世にイギリスやオランダ、さらにはアメリカがスペイン・ポルトガルを駆逐して行く歴史を知っているならば、これら後世の海洋国に先んじてスペインを蹴落とし、太平洋の覇者になる歴史を紡いでみたくもなるというものである。

 また、スペインとグアムを巡って決戦するまではいかずとも、サイパンやテニアンをはじめとする北マリアナ諸島にスペインはあまり興味が無さそうでもあり、カロリン諸島やハワイの移住者にひょっこり乗っ取られている。ここを押さえておくだけでもそのあとの歴史は全然違ってくるのになぁ、と江戸幕府に教えてあげたいです。


参考文献
(※1)「入門グアム・チャモロの歴史と文化」13頁(中山 ラグァニャ、明石書店2010)
(※2)「太平洋ー開かれた海の歴史」55-58頁(増田義郎、集英社、2004)
(※3)※1と同書 75頁

内部リンク
・基礎資料「パンノキ
・資料集「ラッテ・ストーン

外部リンク
グアムの歴史 |グアム政府観光局