くま城戦軍研 ―熊代城砦戦国軍事研究所

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戦国文化人名鑑

戦国画家名鑑
戦国医師名鑑
単独で名鑑とするほど集められなかった文化人を纏めます。

<華道>
・池坊専栄(?~?)
 京都が戦乱で荒れる中、華道は六角堂の僧侶、池坊専慶の跡取り達がその「立花」を受け継ぎつつ、幕府の同朋衆が担っていた「座敷飾り」を吸収し新たな境地を目指していた。池坊家は華道の相伝者としての地位を確立していく。専栄は、先代の専応が築き口伝として残した「立花」を相続したのに併せ、当意即妙の「生花」を確立させた。戦乱が終わって後は京都にとどまらず、日本各地に出向いてその腕を披露している。
・池坊専好(初代)(1536?~1621)
 専栄の弟。後に兄の跡を継ぐ。立花を確立させた先々代、生花を確立させた先代の技をさらに発展させる。戦乱が終わった後には時の権力者とのパイプを繋ぎ、池坊を華道の第一人者に押し上げていった。一方で若き頃は兄に負けず劣らず、日本各地に出向いて華道の拡大に尽力している。

<香道>
・志野参雨斎宗温(1477-1557)
 志野流香道二代目家元。三条西実隆の弟子で、志野流開祖となる宗信の末子。香道を確立した父の跡を継ぎ、足利義澄、義晴に仕えた。茶人としても名高い。村田珠光や武野紹鴎といった茶人や三好長慶や細川幽斎といった武士など、多くの弟子を持った。「参雨斎香之記」を残す。「志野棚」は宗温から伝わったという。父から引き継いだ「蘭奢待」を持つ。
・志野不寒斎省巴(1502-1571)
 志野流香道三代目家元。俗名は信賢。和漢の文才に優れ、若いころから香道の王として君臨した。千利休の香道の師でもある。しかし体が弱く、後には嵯峨に隠棲、道統を弟子の蜂谷宗悟に継がせた。「志野丸香棚」は省巴の好みという。
・建部留守斎隆勝(?-?)
 香道中興の祖。宗温の弟子で、1573年に記した「香道之記」は、産国による分類など、現在にも伝わる香道の基本の形を成した名著となる。志野家断絶の危機の際には、蜂谷宗悟を跡取りとして推し、香道の宗家たる志野家の伝統を守っている。一方で、近江国建部城を領した武士でもあり、六角義治の臣下として、観音寺騒動にも深くかかわっている。
・蜂谷休斎宗悟(?~1584/1588)
 志野省巴の高弟。美濃国の出身で蜂屋氏と関連があるか。志野省巴が病により隠棲した際、建部隆勝の勧めもあり、志野香道の一切を引き継ぐ。以後、志野流は蜂谷氏が現代まで継いでいくことになる。受け継いだ技術のすべてを記した「香道規範」は、香道において「香道之記」と双璧を為す名著として後世に伝わる。茶人としても著名。

<能楽>
・観世宗節(1509~1584)
 俗名は元忠、老後は一安斎を名乗る。1523年に三男ながら観世家を継ぎ七世太夫となる。1542年(天文11年)には火災で装束のすべてと多くの資料を失い、生涯を通じて資料の収集と整理に努め、観世流を中興した。興福寺から離れ、一般大衆相手の勧進能や、地方巡業を積極的に実施。豊後や安芸に赴くほか、1557(天文22年)には謙信に招かれ佐渡に赴いている。
・笛彦兵衛(檜垣本彦四郎栄次)(?~1520~1530~?)
 能役者笛方の伝説的名手であり、現代に伝わる能楽笛方のすべての流派の開祖とされている。
※八王子城主北条氏照に仕えた「彦兵衛」とは別人である。

<棋士>
・大橋宗桂(1555~1634)
 将棋の初代名人。
・本因坊算砂(1559~1623)
 後の囲碁の大家。
・仙也(?~?)
 算砂の師匠。当時最強の棋士といわれた堺の商人。