くま城戦軍研 ―熊代城砦戦国軍事研究所

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江別(対雁)

えべつ(ついしかり)
江戸時代:西蝦夷地(下ツイシカリ場所)
明治時代:石狩国 札幌郡・石狩郡(後に札幌県)
現代:北海道江別市

国土地理院HPの地図を利用

 本項では現在の江別市域について記述する。

1 概要
 石狩川に千歳川、豊平川、夕張川などの河川が合流し、太平洋側や内陸部に河川で行ける要衝。古くから栄えた地で、続縄文時代には文化の中心地となり、本州の影響を受けて古墳(wiki:江別古墳群)が築かれた。
 江戸時代には蝦夷地を探検した近藤重蔵(wiki)が、「この地に大府を築くべし」と報告したともされる。現に明治~昭和初期には、鉄道と河川交通との交点たる河川港として大いに栄えた。
 一方、札幌扇状地を無数の小川を従えて流れる豊平川は度々流路を変え、この地に被害(と豊穣)をもたらしてきた。また、泥炭地という土壌も(資源ではあるものの)入植の妨げになるだろう。

2 戦国前略史
・続縄文時代(本土・弥生時代)
 日本本土でいう弥生時代においても、稲作が出来ない北海道においては縄文時代が発展継続しており、続縄文時代と呼ばれる。
 江別ではこの時期の多くの遺跡が発見され、文化の中心的土地だったとみられ、「江別式土器」(江別市HP)と呼ばれる土器は、道央を中心に広範囲に広まっていた。
・擦文文化(本土・古墳時代~鎌倉時代くらい?)
 江別は、擦文文化期に本州から伝来した古墳が築かれた最北端の地である。
 9世紀頃に築かれた江別古墳群(文化庁HP)からは、須恵器や鉄鏃など本州から伝来したとみられる出土品がみられる。大和朝廷との関りは不明だが、その影響圏の北限ともいえるか。
・アイヌ文化(本土・鎌倉時代~江戸時代)
 大和朝廷の影響を受け土器や古墳を作っていた人たちとのつながりは不明だが、13世紀ごろには道央にアイヌ文化が定着する。
 江別チャシが存在し、江別にもアイヌが住んでいたとみられる。
 江戸時代初期の状況を鑑みると、江別太や津石狩(対雁)には古くから村が成立していたのではないだろうか。また元江別では、漆器や刀を副葬品として埋められた墓が見つかっているそうで、勢力圏を築いたアイヌが存在したのだろう。
 千歳川を主な経路とし、太平洋側(東蝦夷)と日本海側(西蝦夷)を結ぶルート「シコツ越え」も、アイヌによって利用されていた可能性がある。

3 戦国後略史
・江戸時代前期
 松前藩の管轄地となる。
「津軽一統志」「元禄御国絵図」などの江戸時代初期の様子を描いた資料によれば、「いへちまた」(=江別太)、「ついしかり」(=津石狩、対雁)といった地名はすでに登場しており、アイヌの集落があったようだ。
 宝暦年間(1750くらい)、飛騨屋久兵衛という蝦夷地の木材で大儲けしていた商人が、石狩においても松の伐採をはじめ、河川で流した木材を合流地帯である江別において筏に組み石狩川を通じて江戸などに回航して莫大な利益を得た。
 寛政年間には洪水によって豊平川の流路が大きく変更され、札幌~江別の間の地は激変した。
 詳細は折り畳みます。 
(簡単に言えば、北に向かっていた豊平川が東に向かい、江別で石狩川と合流するようになり、江別の要衝度は増したが、暴れ川・豊平川により危険な土地になった。)

寛政年間洪水による、豊平川(サッポロベツ)流路変更

豊平川の流域変更マップ、国土地理院HPを利用し作成

 札幌の本来の地学的な分類は「扇状地」である。
 そのため、都市化する以前の札幌では、各地において「扇状地湧水」が湧き出て、それを源泉とする多数の小河川がそこから気ままに海や大河川に流れ込んでいた。
 そんな小河川の一つが寛政期以前の「ツイシカリ川」(後の「小沼川」(wikipedia))であり、現在の札幌東高校あたりを源泉とし、東に進み江別付近で石狩川に合流していた。
 一方、豊平川《サッポロベツ(乾いた・大きな・川)》はそれら小河川を取り込む大河川であり、寛政以前は大きく北に曲がり、現在の伏籠川の流路をたどり、篠路付近で石狩川に合流していた。
 寛政年間に発生した大洪水において豊平川はその流れを変え、ツイシカリ川を通じて石狩川に合流するようになった。現在の「世田豊平川」がおおむねその流路とみられるが、幾度となく氾濫したらしく、流路もめまぐるしく変わったのではないかと考えられる。
 かつての豊平川本流は「伏籠川」《フシコ(古い)》と呼ばれるようになる。現在でいう発寒川や琴似川(=現在の篠路新川)など、小河川が流れ込んでおり、引き続き大きな河川であり続けた。
 豊平川と石狩川の合流地点となったツイシカリ(津石狩=対雁)の重要度は大いに増したと考えられるが、暴れ川・豊平川は豊穣や交通利便のみならず、水害も大いにもたらしたであろう。

・江戸時代後期
 設立時期は不明だが、松前藩がアイヌと取引する「場所」が、上ツイシカリ(現在の札幌市厚別?)と下ツイシカリ(現在の江別市対雁)に置かれた。
 引き続き、千歳川(江別川)を通じた太平洋側との交通の起点でもあった。文化3年(1806)には、遠山金四郎景元の父、遠山金四郎景晋(wiki.彼もかなりの能吏)が巡察のためこの地から千歳に向かったと記録しており、この時には石狩川と豊平川の合流地点にアイヌの住居3軒と、巡察に使う宿泊小屋が存在していた。
 弘化3年(1846)に松浦武四郎が訪れた際には、さらに栄え、番屋を中心に蔵が立ち並ぶ状況が記されている。(しかしこれらは、後に大火で失われた)
 慶応3年(1867)には、立花由松が通行守として対雁に定住した。これが江別への和人居住の始まりである。

・明治時代
 明治4年に対雁の開拓がはじまり、対雁村設置
 明治11年に屯田兵による入植開始、江別村設置
 明治15年に幌内鉄道の江別駅が開設。以後は対雁から、江別駅及び江別港に中心が移る。
 明治39年、江別村・対雁村・篠路村が合併し江別村に。
・大正~昭和期
 大正5年、江別町に。飛鳥山競馬場が完成、江別競馬が開催される。
 昭和10年、江別大橋完成。
 昭和16年、豊平川の水害に悩まされたことから豊平川の付け替え工事が実施される。旧豊平川は昭和24年の改修工事を経て「世田豊平川」となる。
 昭和29年、江別市となり現代に至る。

4 産業
 古くから麻の産地。林業でも知られ、昭和期には製紙工場も置かれた。大戦時には、豊富な木材から、王子航空機では木造戦闘機キ106(wiki:四号戦闘機)の試作も行われた。
 明治時代には石狩川河川交通と幌内鉄道の交点たる流通拠点として大発展した。当時としては大型船舶にあたる外輪船が石狩川を遡れた影響が大きく、船成金の蔵が立ち並んでいた。(参考:「外輪船上川丸」(江別市HP))
 河での漁業も古くから盛ん。上記の松浦武四郎の記録によればチョウザメも採れたとか。石狩川では「ヤツメウナギ」も捕獲できた。現在、漁獲量は激減しているものの、江別の名産品としてPRされている。(参考:「八つ目ウナギ祭り」(札幌開建部HP))

5 城砦
 江別チャシ(城メモ「江別チャシ」参照) 


外部リンク
江別古墳群(文化庁HP) ―国指定史跡
江別式土器(江別市教育委員会HP) -国指定重要文化財

内部リンク
・城メモ「江別チャシ
・資料集「シコツ越え