「南部藩モロラン陣屋」の一部。
概要
南部藩モロラン陣屋の一部として、海に面した高台に築かれた台場。絵鞆とともに室蘭の港を守る砲台として築かれたが、大砲の飛距離が足りず期待の性能は満たせなかった。
(登城日:2019/8/29 それ以降に状況は変わっている可能性があります。)
Ⅰ 所在地等
北海道室蘭市崎守町
国史跡(南部藩モロラン陣屋の一部として)
Ⅱ 種別・利用法
台場、勤番所
Ⅲ 築城時期
安政3年(1856)
Ⅳ 築城者
南部藩(盛岡藩)
Ⅴ 主要な事象
モロラン陣屋の一部として築かれる。
明治元年、他の南部藩陣屋と同様に引き払い盛岡に撤退
Ⅵ 遺構
土塁
Ⅶ 公共交通機関アクセス
JR崎守駅近く、崎守神社が台場跡。
モロラン陣屋からは3km弱離れている。
1 来歴
南部藩モロラン陣屋の一部として、海を見下ろす砲台として築かれた。
2 構造
海上に面した高台上に東西22m、南北20mの台場と、その後方に東西約30m、南北約35mの土塁を巡らせた番所が築かれた。(※ 参考)
3 状況
台場、番所とも崎守神社の一角となっている。
台場の構造と、番屋の土塁が残る。
4 その他
海を見張る砲台として築かれたポロシレト砲台だが、大砲の性能不足で海へは全く届かず、砲台としては機能しなかった模様である。
解説板
写真は前掲。
史跡 東蝦夷地南部藩陣屋跡モロラン陣屋跡 台場・勤番所跡
外国船が多く来訪した幕末、江戸幕府は北海道からサハリンの沿岸警備を東北の諸藩に命じました。
現在の岩手県盛岡にあった南部藩は、函館から幌別を担当し、この天然の良港を望むペレオケタ(白い・砂浜の意、市内陣屋町)に、安政三年(1856)出張陣屋と台場を築きました。
そのほか、ここポロシレト(親である・岬の意)と、絵鞆に台場・勤番所、また追直と鷲別に遠見番所を設置し、慶応四年(1868、明治元年)まで警備にあたりました。
ペケオレタの出張陣屋は、幕末の北方警備をよく示すものとして、昭和九年五月一日に国の史跡指定を受け昭和四九年九月二十二日には、ここポロシレトの台場・勤番所跡と、同じく南部藩により噴火湾沿岸に築かれた長万部・砂原の屯所跡が追加指定され、現在に至っています。
周囲の状況
崎守駅方面から崎守神社方面へ上る坂は、「室蘭地名発祥の坂」。
室蘭の名付け親は松浦武四郎で、もともと「モロラン」にこの字を当てていたがいつからかムロランと呼ぶようになった。元はアイヌ語《モ・ルエラニ》(小さな道を下るところ)の転移とされ、現在も残るこの坂が語源とされている。
個人的回想
モロラン陣屋の一部ではあるのですが、3km近く離れているのと、遺構がけっこう残っているので別ページを立てました。
砲台の性能は、「ちょっと惜しい」レベルではなく、全然ダメダメだったようで、北海道の沿岸警備を急遽任された南部藩の苦労がしのばれます。
(といいつつも、任された土地の気候や土地の面積や経済力など考えると他藩に比べると南部藩は恵まれてる感じもします)
参考資料
※ 「日本城郭大系1」166頁 (昭和55年 新人物往来社)
外部リンク
・「東蝦夷南部藩陣屋跡モロラン陣屋跡」(室蘭市HP)